幸せを呼ぶ法則

著者:パーットヤラント・ラッセル
訳者:ponomakarera


目 次

著者まえがき
第一部 幸せの探究
 1 人が幸せを感じる時
 2 熱意
 3 愛情
 4 家族
 5 仕事
 6 努力と自己顕示欲
 7 幸福なひと
第二部 不幸の探究
 1 人が不幸を感じる時
 2 自殺の論理
 3 競争
 4 嫉妬
 5 罪の意識
 6 世間への恐怖
贖罪



 
著者まえがき


 この本を手に取ったあなたは、少なくとも現状に対して幸せだと感じていない事だろうと思う。物質的に豊かさを手に入れた現代人は本来は不幸だと感じないはずだが(考えてほしい、数十年、数百年前の人達にとって現代の体制、あるいは文明の利器等は彼等が羨望していた物だ)、にも拘わらず新聞で目にするのは、私達はいかに搾取されているかという情報か、あるいは本屋では「どうすれば幸せになれるのか」をテーマに書かれた本が大量に積まれ、それを手に取る人や、立ち読みをする人達がやむことなく存在している。
 人類が誕生して以来、「私達は幸福の獲得を最優先事項として生きてきたはず」、という風に人類史を総括することは出来ないが、少なくとも不幸になりたくて時を重ねてきたわけではあるまい。しかし現状はどうだろうか、よくよく考えると私達は幸せになりたい、幸福の状態を維持したいと願うが、幸せとは何かと厳密に考えたことがあっただろうか。子供の時は義務教育と称し学校という社会から隔離された場所へ集められ、学校を卒業すれば社会へほっぽりだされ、世間体という体裁を気にし家庭を持ち、無知な我が子を「それがお前のためだから」と学校へと隔離し教育を他人に押し付ける。子供は成人となり家から離れ、自由な時間が増えると安堵し、ふと鏡に写っている皺くちゃになった自分の顔を見ながら、あなたはこう思うかもしれない。「私は何のために生きているのだろう、自由な時間が増えた所で有意義な使い方を見出せない。私の人生は他人から生き方を強制され、それに従っていただけだった。……私の子供は、私と違って生きることに幸せを感じているのだろうか……」
 今ここであなたに問いかけてみよう。つまり、幸せとは何か、そしてそれをどうやって手に入れるのか。あなたに最良の答えを提示できるかはわからないが、もしあなたがそれらの問いについて沈黙しているのであれば、私はこの本で幸せについて大いに語ってみようと思う。歳を取るに従いたくさんの人達と出会ってきたが、不幸な人達はもちろんの事、生きている事が楽しく楽しくて仕方がない人達を目にしてきた。彼等を思慮深く観察し、その違いは何なのかと心の中で問答してきたものを今この場で吐き出してみようと思う。
 この本は特に高尚な論考や、一般の人が全く耳にした事が無い言葉でもって複雑なテーマを語る事などはしていない。この本の対象者は日頃仕事に勤しみ、仕事帰りに酒を飲む事が何よりの至福だと感じる人や、休日を何よりも待ち望んでいる人達へ向けて書いたつもりだ。哲学者が好むような深淵な事象は扱っていないが、幸せという普遍的なテーマについて興味を持っているのであれば、あなたを退屈させない程度には満足させられるだろう。



 
第一部 幸せの探究
 
1 人が幸せを感じる時


 幸せについて考えてみた場合、幸せとは客観的な指標により成り立つものではなく、当人の受け取り方次第で変わるという事はあなたも納得してくれるだろうと思う。例をあげよう。ある男Aは神童と呼ばれる程非凡な才能の持ち主で、人々が難しいと感じる事をいともたやすく解決する事が出来た。Aは幼少期から着実に成功の道を進み、大人になったAにとって大金を得るのは造作も無いことのように思えた。Aはフィクションのような存在で、頭が良ければ顔もスタイルも完璧、女性がAを放置することは無く、異性関係に事欠くことは無かった。人々はAが体験する日常を羨んだが、Aは日常を幸せとは感じていなかった。幼少期の頃、Aは親の期待を一身に背負い、またAもその期待に応えようとした。Aの非凡な才能が発揮される度に環境は変わっていった。Aは常に称賛を受けるが、彼の周りに集うのは評価する側の大人達であり、同年齢の子達はAの非凡な見識、共通認識の隔たり、または嫉妬心から、Aの元から離れていった。異性に不足しなかったAだが孤独を払拭する事は出来なかった。Aと関係を持つ女性達は、Aの才能、身体、地位、名誉に惹かれ、Aの全てを愛しているように振る舞うが、Aは不満気に女性と別れては、また新しい女性と関係を持つという事をひっきりなしに繰り返していた。
Aが欲しかったのは普通になれる才能と、何の取り柄も無い自分を愛してくれる本当の愛情だった。周囲の人間達が称賛する物はAにとっては表層的な物であり、彼の内部まで深く言及する者は誰もいなかった。Aは孤独を癒すために、財産も地位も名誉も捨てて、どこかへ消えて行った。
 もう一つ例をあげよう。ある女性Bは自分の事を不幸な人間であると認識していた。というのもBが子供の頃、家庭は貧乏であり、友達と行動を共にする際には一般家庭との環境の違いを感じる事が頻繁にあった。好きな服を買ってもらえず、旅行をする余裕は無く、自分の学習環境に投資することは無い。Bは自分の容姿にもコンプレックスを持っていた。標準的な容姿に到達せず、自分はブスの範疇であると自己評価していた。環境が恵まれている同級生に対しては嫉妬し、美人には粗探しを、自分の容姿以下だと判定した人には仲間意識を演出しつつ内心侮蔑の言葉をかけていた。Bは常に他人と自分を比較していた。高校を卒業後に就職、暫く働いていると、Bはある男Cに告白される。恋愛経験の無かったBにとって告白されるのは思いがけない出来事であったが、浮かれる事はなかった。というのはCは「顔はブサイクで低所得」と女性に自慢できる存在ではなかったからだ。しかし、この歳になって恋愛経験が全くないというのは非常にまずい状況だと判断し、Bは妥協してCと付き合い始めた。Cはうだつが上がらない男だったが、Bに対しては情熱的だった。なけなしのお金をはたいてはBにプレゼント等を買ってあげた。その後、CはBにプロポーズした。Bは全くCに惹かれておらず、拒否しようとしたが、今後自分がプロポーズされる機会が訪れるのだろうか、と考えた。独身のまま既婚者達から笑われる人生と、夫は低所得だが家庭を築いている人生、どちらがましかと考えた時、後者の方が良いと判断し打算的にCのプロポーズを了承した。
余裕の無い生活の中で献身的に自分を支えてくれる夫の背中に視線を送りながら、Bは自分の人生を俯瞰してみた。もし子供の頃にお金のある環境で育っていれば、もっとましな人生を歩めただろう、もし私が標準以上の容姿であれば、この男とは結婚しなかっただろう。自分は不幸だと再認識するとともに、ほんの少しでも優位性を保つために、Bは独身女性を叩く行為に勤しみ始めた。
 さて、AとBは架空の人物であり、現実の人間にこの例を当てはめるのは不適切かもしれないが、この例から導き出されるのは、Aが不必要だと思っていた要素はBにとっての幸せであり、Bが全く気にも留めていなかったものはAが希求していたものだったという事だ。もしAとBがお互いの立場を交換できるのであれば、彼等は喜んでするだろう。幸せかどうかは当人達が決定しているため、自分が幸せだと思っている事は、他人も同じように感じるとは限らないし、逆に自分が不幸だと思っている事は、他人も同じように感じるとは限らないのだ。
 上記の例について疑問を抱いた人はいるかもしれない。この例は結論ありきで現実には適用されない、例えAのような人物がいたとしても、今時愛情に対して真摯な人間がいるだろうか、Bは極端な例でミソジニーをこじらせているような感覚さえあると。しかし、人とは複雑で一概に語る事は出来ないとしながらも、我々の思考、言動はある基準にそって形成されている。でなければ性格という言葉、概念が生まれるわけがない。Aの例の場合、人より優れた才能という要素が彼の環境を決定し、彼の欲求は人とは違うものへと変質した。Bの場合は様々な要因から自尊心の低さと、人と自分を区別する性格が形成されたと考えられる。現実の人間も同じようにある規則性にそって性格が形成される。そして形成された性格はちょっとやそっとでは変化しない。そこでは受け取る情報に対しての反応は固定化され、行動はパターン化され、価値観も固定化される。上記の架空の人物達にリアリティがあるかはどうかは置いておくとして、彼等の行動様式は現実の世界の我々にも共感を得られる話ではなかろうか。
 少し趣を変えて話そう。あなたはこういう話を両親からされた事はないだろうか、「食べたくても食べられない国の人達がいるのよ、好き嫌いせずに食べなさい」、あるいはこういうのはどうだろう、「世の中には食糧を得る事が出来ず餓死する人間がいる。にも関わらず我々はコンビニなど売れ残った食べ物を平然と廃棄している。捨てられていく食糧を彼等に配布すれば大勢の命が救われる、我々は人類という大きな枠組みで生活習慣を改めなければならない」、これらの論理は人々の幸福論にまで及び、以下のような言説になるだろう、つまり、「自分達の生活圏よりも酷い生活圏がある、だから現状は幸せ(まし)だと思え」。この言説は一見通用しそうで、上述したAとBの例を鑑みるとおかしなものに聞こえる。まず自分達よりも低い文明レベルに住んでいる人達は必ずしも不幸であるとは限らない。例えば今から数千年後の人類を想像してみよう。私達人類の文明は(恐らく)高度に発達し、出来ない事の方が少なくなっているはずである。仕事は無くなり、完治できない病気も無くなっているかもしれない。仮に数千年後の人類達が私達が今生きている時代を、「なんて凄惨な時代だろう!、死ぬまで働き、しかも病気で命が奪われるなんて!」、と評価された所で、私達は今の時代に生きている事に不幸だと感じるだろうか。例え客観的に不便であろうが、現状に満足しているのであれば不幸であるという評価は当てはまらない。同じことが近代的な国家を持たない部族や、発展途上国にも言える。客観的指標でもって彼等の生活水準がいかに劣っているか論説しようと、彼等が現状に満足しているのであれば、その生活で十分である。逆に生活水準が高かろうが、不満であると感じれば、環境が高度になろうと不満は解消されない。
なのであなたが両親から、「食べたくても食べられない――」と言われた時はこう返すことにしよう、「あなたの意見を正当化するために他国の生活水準を持ち出すべきではない」
あるいは熱心な改革者から、「世の中には食糧を得る事が――」と言われた時はこう返すことにしよう、「食糧を配布し大勢の命を救う事と、我々の生活習慣を変える事は同義とは言えない。早急に生活習慣を変えるのではなく、検証が必要である」
 それにしても「比較」という行為は観測の一つの手段として私達に良い指標を提供してくれるかもしれないが、このような行為により人間の優劣が決められ、他人を蔑む行動原理にもなってしまっている事に、私達はあまり意識的ではないかもしれない。大抵の子供達は親が仕事に行っている間、学校に通わされ教育を受ける事になる。彼等がちゃんと学校で教えた事を理解しているのか、そのチェックのためにペーパーテストを受け、その結果を点数として表示し、授業の理解度を計る。これらは教える側の教師、親などの大人達にとって便利な判断材料となるが、評価される側の子供達には比較という要素に染まることになる。あの子は僕よりも点数が低い、あの子は私よりも点数が高い、このように数年もの間、教育機関において子供達は強制的に自分と他人の成績を比較される。学業成績と社会での地位がリンクされるとなると彼等は必死になって成績を上げる事に努めるだろう。このような環境で育てられた子供達が大人になった時、比較という行為を捨てて自分の能力に自信を持てるようになれるだろうか。自分よりも劣った人間を目にした時、彼等はどういう態度を取るようになるだろう。あなたも現状を肯定する際に、他人と自分を比較して、自分が優位である事に安堵するような考え方をしていないだろうか。それらは大人の都合により知らずに身につけてしまった悪い癖かもしれない。
このような癖は人々にとって生産的なものとは言えないと私は思う。もしあなたが絶望的な状況に陥った時、上述したように、目の前にいる自分よりも絶望的な状況にいる人間と自分を比較して、現状を肯定しようとするかもしれない。では、そのような比較された人間はどうすれば現状を肯定できるだろう。恐らくあなたがやった事と同じ事をするだろう、つまり自分よりも、もっと酷い状況にいる人間と自分を比較し現状を肯定する。そしてその比較された人間も同じ事を続ける……このような連鎖的な比較による不幸の解消法に生産性などあるだろうか。現代社会は競争を成長の一つの要素とし、客観的指標でもって順位を明確にしようとする。向上心を持って上位を目指す事は良いかもしれないが、下位の存在を見下し優越感に浸り、その下位の存在は気分を解消するために自分よりも下位の存在を見下す、このような負の連鎖が発生しうる事を意識しなければいけない。
 例えテストの成績が悪かろうと、他人からの評価が悪かろうと、親達は子供達に社会的な評価とは別の自分自身の幸せの追及について教えるべきである。私はある博識な芸術家を知っている。彼は貧乏で彼の作品を見るとゴミをかき集めたものや、古典絵画に奇妙な模様を描いたりと、理解に苦しむようなものを展示していた。私は彼に対して酷い固定観念を抱いていたものだから、彼に、「やはり芸術家は常人とは違う物を常に模索しているものなのですね」と言った。すると彼は「それは違います。少なくとも私は普通のことを作品を通して大衆に伝える事を意識しています」と返した。私はてっきり芸術家と称している人達は皆変人で、常人が感じる世界とは別の世界を提示する人達だと思っていた。だから彼等は自分の作品が理解されなくとも気後れする事なく、例え作品が売れず貧乏の身であっても理解できない人間がいるのはしょうがないと居直る人達だと思っていた。私の抱く芸術家像とは反対に、彼は「普通のことを大衆に伝える」と発言した。彼の発言に興味を持った私は彼と話し始めた。彼の作品の裏にある根本理念や、芸術家が大衆に対してどう役割を果たすかという思いを聞いて、私は自分の芸術家像を改めざるをえなくなってしまった。彼は浮世離れした環境にはいたが、その中身は常識人であり、貧しい身なりをしていながらも、彼の頭には歴代の芸術家達が築き上げてきたアートという文脈や、人類史における表現に対する深い理解などがぎっちり詰め込まれていたのだ。社会的に低い地位にいながらも、彼は確かにアーティストという名の学者であった。作品について語る時、彼は生き生きとした表情をしていた。そこらに散らかっているゴミや一般家庭で使われている物品等を集めては、作品の製作に没頭し始めていた。彼にとってはお金や地位といったものは価値ある物と認識していないのだろう。
上記と似た話だが、理性が伴わない職に従事しているからといって、その職に携わっている人間を偏見の目で見てはいけない。例え社会的に賤しくても、その職に就いている人間の人間性まで賤しいとは限らない。私はとあるプロレスの会場にて、あるレスラーと話した事がある。リング上での彼はとても荒々しいパフォーマンスをし、粗野な性格を感じさせるものだった。周囲にいる観客達はリングに向かって下品な言葉を放っていた。恥ずかしながら、私にとって興行的な格闘技の類は野蛮なものであり、理性とはかけ離れた場だと解釈していた。リング上で対戦相手をのしていた彼と話す機会を得たが、リング上での姿と違って、話している彼は物腰が柔らかく、とても紳士的な印象を受けた。暴力性を感じる言動や粗野な人間性であろうと予測していたが、その反対に彼は実直に自分の日常を語り始めたのである。彼の話を聞いて、プロレスという職業柄、このような性格でなければ職を続けられないだろうと納得した。鍛錬を続ける継続性、観客を意識した演出力、長期間体をフルに動かせるようにする自己管理能力、これらは理性を必要とする行動だ。ましてや彼等は格闘を生業としている、打ちどころが悪ければ命に係わる。そのような事態を回避するために相手の所作一つ一つを注意深く観察し、即座に合理的に対処しなければいけない。リング上で荒々しい行動を演出する彼の内心は非常に落ち着いた理性的な性格だったのだ。
またある男性はとても内向的な性格をしていた。彼は社交的ではなく、私が話していても興味がなさそうな態度を取ったり、外出して人と会うより部屋に閉じこもって一人で作業する事を好んでいた。職場での彼は、すぐ隣にいる同僚に対して、報告の際にはメールでやり取りをしたり、社内の懇親会においても平然と辞退するような人であった。誰とも馴染むことが無い彼は会社から爪弾きされるような存在に思えたが、実際は違っていた。彼の仕事はコンピューターを扱うものであり、社内の誰よりも優れた成果を出す人物だった。私の予想とは裏腹に、彼は社内において貴重な戦力として重宝されていたのだ。仕事において人間関係は重要な要素であり、非社交的な性格はマイナスの評価を受けやすい。幼少期から性格に難ありと評価され続けていたであろう彼には、人には無い並外れた才能を備えていたのだ。
もう一人、ある男性についても話そう。私がある美術館で絵画を鑑賞していた時、ある絵が目に留まった。その絵は女性の裸婦画であったが、他の絵とは趣が違い、美術的な女性の美というよりも肉感的で、ポルノ関係の雑誌にでも載る様な、商業性を感じさせる絵だった。私はこの絵はこの場に不釣り合いに思えて、違和感を感じながら美術館内を歩いていた。暫く鑑賞を続けていると、学芸員の姿が目に入ったので、私はあの絵について尋ねてみた。学芸員は私の質問を聞くや否や、今、館内にあの絵画を描いた作家さんがいるので呼んできますと答えた。私は別に作家に要は無く、商業性が強い絵を美術品として館内に展示する意図はなんなのか聞きたかっただけだったのに、と溜息交じりに愚痴をこぼしつつも、ここに例の絵の作家を連れて来るという事から、「きっとスーツを着た芸術とは違う分野の人間がくるのであろう」と内心呟いていた。暫く待っているとある人影がこちらに近づいて来た。その方向に目をやると、やって来たのは学芸員に押されながら車椅子に座っている男性であった。予想外の姿で現れた事に驚いていた私を置いて、彼は私に話しかけてきた。彼の話によると、彼は学生時代は野球に没頭する体育会系の性格で、芸術とはほど遠い生き方をしていたらしい。大学に在籍し野球に明け暮れる生活をしていた彼に悲劇が襲う。バイク事故にあい、頸椎を損傷し、首から下が動かせない障害を負ってしまった。野球はおろか、介護者がいなければ上手く生活が出来ない身になってしまった事に、彼は生きる希望を失ってしまった。無情にベッドの上で時間が過ぎていくのをただ待っていた彼に対して、献身的に彼を支えていた看護師が彼に、口なら動かせるからそれでしたい事をすればと助言した。彼は何もせずにいるよりはましだろうと思い、気乗りしなかったが、口で絵を描き始めた。今まで能動的に絵を描くという行為をしたことがなかった彼が最初に選んだモチーフが女性であった。気晴らし程度に絵を描く事を続けていたが、次第にそれが生きる活力に繋がり、彼の悲観的な感情は和らぎ始めた。彼は一般的な芸術家が選ぶようなモチーフを選ぶことなく、女性を描き続けた。自分の好みの女性のスタイル、容姿を追求し、ただそれだけを描くことに卑下することもなく何年も続けていたらしい。長い年月をかけて絵を描き続けた結果、口で描いたとは思えない程に腕は上達し、外部からの勧めで美術館に作品を提出するようになったのだという。
彼の話を聞いている間、自分の思慮の浅さを思わずにはいられなかった。彼は、絵を描き続ける事で悲観的な感情が完全に払拭されたわけではないと語った。事故が起きた事に対して、後悔の念を抱く事もあるし、口だけしか動かす事ができない今の自分の身体に対して、時折やるせない感情が湧いてくるのだという。しかし今の自分にとって絵を描く事は同じ状況に陥った人間に生きる希望を与える事に繋がるし、またベッドの上で毎日を過ごす環境から、社会と接点が希薄な日常を送る自分が、唯一、社会に対して生きている証拠を提示できる手段であり、絵を描き続ける事が今の自分の生き甲斐になっているのだという。絶望的な環境に陥りながらも彼は、健康的な身体を持つ人間達が見失いがちな生き甲斐といったものを獲得していた。彼からすると、健常者の「私は不幸だ」という嘆きは一笑するようなものに聞こえるに違いない。決して高尚な作品であると芸術界から評価されることはないであろうが、他人の評価を気にせず好きな物を描き続ける信念を語る彼は幸せを体得しているように見えた。
 上述した人達は一見、大衆が望む幸せ、あるいは大衆が望む社会的地位からは外れているように見える。しかし彼等は大衆とは異なる独自の行動理念を確立し、そして己が求めるままに行動し、自分の欲求を解消してきた。ある者は富裕層からは蔑みの感情で見られる存在かもしれない、ある者は大衆から同情の念で見られる存在かもしれない。しかし私が彼等と出会い、彼等と語り合って理解した事は、大衆の大半が既定の幸せを求め、四苦八苦している中で、彼等は自分の生き方に自負心を持ち、自身の価値基準によって自分だけの幸せを獲得していた事だった。幼少期から他人の評価を自分の幸せと内面化し、社会の鎖に縛られている現代人が彼等のような行動理念を確立するのはとても難しい事のように思える。殆どの人達が内部から沸き起こるやりがいや情熱といったものではなく、外部の価値基準によって自己を肯定しているのが現状ではないだろうか。
 ここで残念な結果になってしまった例を挙げてみよう。残念とはつまり、本人が望んでいないにもかかわらず他人によって生き方を強制された挙句、最悪な結末に陥ってしまったケースの話だ。あなたはこのようなニュースを聞いた事がないだろうか。ある一家は父、母ともに高学歴であり、両者とも医者を職業としていた。両親は一人息子にも医者になって欲しかったらしく、幼少期から受験を意識した教育を行っていた。両親もまた、幼少期から厳格な教育を受けていたらしく、高収入であり、体裁のよい医者に成れと自分達の親に言われ続け、実際になった後は様々な恩恵を受けた事から自分の子にも医者になるように強制的に指導したのだという。
しかし不幸にも息子は医者になることに興味は無く、白紙のノートを机の上に置いては絵を描き続けていた。学校の成績は標準的だったが、美術に興味を持っていて、同級生からの頼みで学校行事などの時は絵を描いてあげていたのだという。彼は両親には医者ではなく、絵に携わる事をしたいと話していたが、両親は聞く耳を持たず、彼に強制的に家庭教師を付け、塾へと通うようにしていた。両親は長いこと彼に医者になるように促し続ければ、彼も自分の夢を医者へと変更すると思っていたのだろう。この目論見は外れ、親子ともども最悪の結末を迎えることになる。
他に兄弟がいない事から逃げ場所が無かった息子は、両親の願望を一向に受け、長年ストレスを溜め続けた。そしてついに事件が起きてしまった。高校生であった彼は両親を殺害してしまったのである。やりたい事が出来ない環境にいた彼は、自己のストレスの解消と発生を避けるために、両親を殺すという選択をしたのだった。
こんな悲しい事があるだろうか。両親は子供が殺人鬼になるのを望んでいたわけではなく、子供の幸せを考えて医者になるように教育をしていた。しかし最終的には子供に不幸な現実をもたらしてしまった。ほんの少しでも彼等が『幸せ』について認識を改めていればこんな事は起きなかっただろう。現実問題として、このような事件はそう珍しいものではない。もしあなたが子を持つ親であれば、自分の人生と子供の人生は別である事を自覚しなければならない。
 殆どの人達は幸せを希求しているはずだが、その根本的な理解をおざなりにして、身近に存在する獲得手段にばかり目を奪われている。それが果たして正しいのかどうか検証をする余地もなく、実践し徒労に終わるか、あるいは最悪の状況に陥ることにもなる。上述した最悪の例から解るのは、私達が思っている幸せとは、大抵は親から与えられるものだ。子供の頃のあなたは無知で、世界が何でできていて、何で動いているのかわからない。あなたはひ弱な存在で腹を満たすための食糧を己で確保する能力は無い。このような存在が生命を維持するためにはどうすれば良いのだろう。答えは単純に、生命を維持できている存在に頼るというものだろう。そしてあなたにとって身近にいるそのような存在は親に他ならない。あなたを生かすも殺すも親しだい、あなたにとって親は最愛の存在であると同時に、支配者として君臨している。親からの庇護を受けるには、親の命令を聞かなければならない。そしてその命令の大半は客観的考察によるものではなく、親の価値基準により発せられるものだ。子供から大人へと成長するに従い、あなたは気づかない内に親の価値観を内面化し、親の幸せを自分の幸せと認識するに至る。果たしてそれで本当の幸せを体現できるのか、私の経験上、私が今まで出会った人達、上述した人達の例を振り返ると、難しいという評価に至らざるを得ない。両親を殺してしまった学生の例は最悪の結末を招いてしまったが、親の願望に反抗するという行動は、本来自分の幸せを追求する過程において起こりうる当然の行動のように思う。
 支配者による幸せの内面化について考察を続けてみよう。私達の幸せの概念の大部分は親によって形成される事を述べたが、私が思うに、それだけではなく他の要素によっても既定されている。周囲の人達の幸せの方向性を探ってみると、皆それぞれ幸せについて異なる解釈をしているのではなく、共通理念を抱いている事がわかる。他人よりも自分は優れているだろうか、働いている会社は世間において恥じる事のないものか、年収は、地位は、親族で自慢できる者は、この人と付き合いを続ける事による私のメリットは――。集団での作業を強いられる現代の社会において、あなたは意識しなくとも集団の共通理念を刷り込まれている可能性がある。というのも、多種多様な性格を持つ人間達が同じ環境で作業するにあたって、同一の価値観を共有している方が、スムーズに事が運ぶからだ。このような集団的共通認識を俯瞰すると、特定の場所に留まらず、国といった広範な領域にまで浸透しているのに気づく。私達はそれを一般的に文化と呼んでいる。
あなたは世界の国々の文化や風習を知るにあたって、想像を絶するような、遠く理解が及ばないと思った経験はないだろうか。例えば、ある国では女性の権利が著しく蔑ろにされている。選挙権は与えられず、教育を受けられる方が少ない、ほとんどが十代で結婚し、社会で活躍する機会を与えられないなど。他には、ある国では生まれた瞬間に自分の人生が決定される。社会的に階層による差別が肯定され、職業を選択できる自由が無い。さらにその階層の者としか婚約できない。これらの文化に触れた時、あなたはそれらの国に住む人達を不幸な人達と評するかもしれないが、彼等は自分で選択してその文化を継続している以上、それが当然であり、不幸だとは感じていないだろう。むしろ彼等にとって、そのような文化から逸脱する行為は看過できないものだと認識しているかもしれない。ここから解るのは集団における慣習はあなたの幸せを既定している可能性があるという事だ。換言すると、あなたが普通だと思っている事は、他国から見ると不自由で理解できない不幸な行為だと認識されている可能性がある。
これらの慣習は複合的な要因で形成され、一概に排除できるものではない。というのも全人類が共感できる倫理観など、挙げられるものの方が恐らく少ないであろう。全人類を納得させられる倫理観が存在しない以上、あなたはその文化の何が善くて何が悪いかは言及できはしない。しかし、上述した「支配者によってあなたの幸せは内面化される」という言説が、慣習が形成される一つの要因となるのであれば、その社会を支配する人間達の倫理観によって、あなたの幸せは既定されると言えるかもしれない。
 簡単な例を出そう。あなたの国が戦争状態に陥った時、権力者達は、「愛国者であれば命を懸けて国のために戦え」とあなたを扇動するかもしれない。「お国のために死ねるのは誉れ高き事である」とあなたの命を戦火に投じるよう強いるかもしれない。愛国者であるあなたはこのような発言に共感し、国に貢献できる事を自身の幸せと捉え、身を投じて戦火に突撃するかもしれない。しかし一旦冷静になって、国と自身の幸せを切り離して考えてみると、おかしな点が見受けられる。
まず一つ目、死ぬことによる幸せの成就とは果たして成り立つのだろうか。あなたが戦争に兵隊として配置される以上、あなたの命はいつ奪われてもおかしくない。あなたの命が奪われるのと引き換えに国に多大な戦果をもたらすと仮定しよう。国が戦争に勝利しても、あなたはこの世にはいない。つらい環境の中、命が奪われるという恐怖の中、祖国が勝利する未来を想像しあなたは玉砕覚悟で敵に挑み命を果てる。例え祖国が勝利し歓喜の渦が湧こうとあなたはその状況を体感する事はできない。死線の真っただ中にいて刻まれる恐怖の感覚と、命を代償にする行為を果たして本当に幸せと定義してよいのだろうか。もしそうであると断言できるのであれば、それはイスラム教のジハードと何も変わらない。救済の論理と死者の論理が結びついた宗教的な教義と言わざるを得ない。それは信仰を守れなければ救済されないという、恐怖による強制と何が違うのだろう。
そして二つ目、「愛国者であれば命を懸けて国のために戦え」という論説は支配者の都合が含まれている。愛国者という言葉によりあなたの言動は制限される、何故ならこの論説により、命を懸けなければそいつは愛国者ではないという不文律が成立するからだ。国を愛するあなたは萎縮し権力者の指示に従おうとするかもしれない。しかし国を愛する事と、権力者の意見に従う事は同じ事ではない。国に貢献する人間を愛国者であると定義するのであれば、命を懸けて戦う事が、必ずしも国に貢献する事ではないと判断した場合、愛国者であるあなたは即刻権力者に異議を申し立てるべきである。このような権力者の都合と、あなたの崇高な精神を同一にするべきではない。
 月並みな例かもしれないが、この例から導かれるのは慣習や集団における価値観の形成には支配者の都合が含まれている可能性があるという事だ。あなたが当たり前だと思っている事、自身の幸せであると思っている事は、他人によって刷り込まれたり、他人の幸せを自分の幸せであると勘違いしている可能性がある。あなたが幸せを体得するには、この事を注視して自身の幸せとは何か考察を重ねる必要があるだろう。次の章では幸せを体得するには何が必要かを具体的に語ってみようと思う。



 
2 熱意


 ある親の子供に対する相談事を聞いていると、このような話が飛び出す。「私の子供は学業に熱心ではないので困っている。家に帰ってからやる事といえばゲームばかり。おかげで成績は一向に改善されない」。子供が学業不振であり、学校外に関するものに没頭している事に対して、これは親が思っている一般的な見解ではなかろうか。しかし、子供はこのような親の見解とは違う視点で学校に通っていると思われる。私が彼等に代わって彼等の気持ちを弁明してみよう(もっともこれは大人の私が想像する、「子供が学校に対して思っていること」、でしかないのだが)。
まず学校の成績という評価基準は、国家や私立の学校が授業内容を把握できたかどうかチェックのために設けた基準であり、それらがその子の人生観を決定するほどの大きな要素ではない。仮に高成績を修めたところで、現代社会を生き抜くのに有利になるとは思わない。あなたはたまに巷で話題になる血液型性格判断に疑問を持った事はないだろうか。多様な文化、多様な性格を有する人類が、たった四つのタイプに分けられ、それがまるで当人の人生観のように断定的に語られる事におかしいと感じないだろうか。私はこのような何の信憑性も無い判断方法が蔓延る理由は、複雑怪奇な人格を解りやすく納得させるためのツールとして機能しているからだと思っている。四つという大きく分けた括りの中で一割程度当たっていたとしても、あなたは「そうかもしれない」と納得するかもしれない。納得できれば、あなたは抽象的で言葉にするのも難しい自分という概念を血液型という枠組みで語る事が出来る(それが正しいかどうかは度外視して)。同じように、あなたが他人の人格を把握する際に血液型を利用すれば、言葉によって表現されるため、何となく相手を把握し自分と比較する事が出来る。この人と相性が良い理由はこうだから、この人とそりが合わないのはこうだから、とそれらはあなたを納得させる説明原理を提供してくれる。しかし血液型と性格がどのような因果関係にあるのかは、何の立証もされていないのだ。
話を戻そう。私達の人格は複雑怪奇だ。ある子供は動物達を食べ物として命を奪う事に罪悪感を覚え、命を狩ってでも生きる事に責任を感じるかもしれない。ある子供は虫の四肢を引きちぎったり、箱に閉じ込めて餓死させたりと、命を弄ぶ事に何の意識も発生しないかもしれない。正反対な性格の人間や異なる思想を持った人間達により構成される複雑な社会において、教育機関が設けた成績(それも数個程の科目だろう)によって社会的に成功者となれるかどうかなど、どうやって判断できよう。親達はその因果関係を説明できないにも関わらず、何故か子供が勉強出来ない事を不味い事だと思っている。血液型性格判断の例によれば、親達は子供を判断する簡便な説明原理が欲しいだけなのだ。
 そして二つ目。私の観察によれば、子供達は実は学ぶことが大好きである。宿題を放棄し学業とは別の事に熱中している子供達をよく観察して欲しい。彼等に宿題をやったか尋ねると不快な気持ちで反応するだろう、「宿題は終わったの?」、「……」。では質問を変えて彼等に尋ねよう、「今あたなが熱中している事は何?」、「ゲームをしている。この敵を倒すのに苦労しているんだ」、「なんでそんなに苦労しているの?」、「こいつを倒すには自分のキャラをある程度成長させなきゃいけないの」、「成長させるって、何が成長するの?」、「キャラクターの能力値が成長する。ザコ敵を倒すと経験値が得られて、それが一定値まで貯まると能力値が上がるんだよ」、「成長させる以外に倒す方法はないの?」、「成長させる以外の方法、もしかしたら戦略しだいで勝てるかもしれない、例えば相手の弱点要素で攻撃するとか、あるいはアイテムを組み合わせて攻撃を防いで――」、子供達は自分が不本意にやらされている事に対しては消極的な反応をするが、自分が熱意を持って挑んでいる物に対しては豊富な知識をこちらに披露してくれる。これはゲームやスポーツといった能動的な物でなくてもそうだ。子供達が漫画を読んでいる時、あなたはその時間を勉強に使えばいいのにと不満を漏らすかもしれない。漫画は受動的なメディアで、己の頭で考える機会を与えられず、ただ絵を目で追っているだけと思われがちだが、彼等の頭の中ではその漫画内における設定だとか、キャラクターの人格、行動原理などが絵や文字という表現を通して頭の中で整理されている。さらに彼等はそれらの要素に対して独自に解釈している部分があるかもしれない。この先どういう展開になるのか、この設定が後々伏線になるのだろうか、このシーンは何を意味しているのかと、受動的に思われるメディアでも読者が頭を使う部分は多分にあるのだ。彼等に漫画内の主な要素について尋ねてみると理路整然と説明してくれるだろう、「この漫画のジャンルは○○で、主人公はこのキャラクターで、物語は◇◇から――」、抽象的な絵や、吹き出しに書かれたセリフ等の情報を一元化して、自分の言葉で説明するのは頭が良くなければ出来ない事だ。ある子供はゲーム内である状況を打開しようと、与えられた情報から頭をひねって戦略を捻出するかもしれない。ある子供はたくさん読んだ物語から独自の規則性を構築し、面白い物語を読みたいが為に、それを駆使してたくさんの情報を区別するかもしれない。親達が一見遊んでいるだけのように見える事でも、彼等はしっかり頭を使って整理するという作業をしている。
 あなたは図鑑を夢中になって読んでいる子供の姿を見たことが無いだろうか。大人達が気にも留めないもの、例えば動物だったり昆虫だったりをまじまじと観察したり、手に持って子供は触れようとする。学業そっちのけで動物や昆虫に夢中になる子供を前に、子供特有の気まぐれの遊びと判断していたあなたは、ふとそれは何かと尋ねてみる。すると名前だけでなく、生態系などの具体的な言葉をその子は返し、あなたは面を食らう事があるかもしれない。大人から見るとちっぽけでこの世界の事を何も知らないように見えるが、あなどるなかれ、そこらの大学生に負けない小さな博士の場合もあるのだ。
彼等に知識の摂取を駆り出たせているのは、熱意である。彼等は一度その分野の虜になると四六時中その事について考えるだろう。これは別に体系化された分野に留まらない。例えばある女の子が男性アイドルに夢中になっているとしよう。彼女はそれがもっと身近になるように、曲を集め出すか、コンサート会場に出向くようになると思われる。彼女は得る情報すべてをその男性アイドルと紐づけるかもしれない、「私が好きなアイドルは世界一かっこよくて、歌も世界一上手くて、全てがパーフェクトなの!」、彼女は商業的なターゲットとしてこの上ない存在だろう。男性アイドルにとって彼女はファンの一人にすぎないが、彼女にとって男性アイドルはオンリーワンな存在である。彼女が持っている時間の大半を彼に費やすことになるだろう。これが学びと言えるのかはさておき、このような熱意は他の分野への興味に繋がるかもしれない。例えば私が知っている人の中には、好きな男性アイドルの絵を上手に描く人がいる。彼女はファンアートとして世界中の男性アイドルファン達と交流する際に、皆と価値観を共有しようと絵を描いて提出しているのだと言う。彼女はそれをきっかけとして美術を学ぶ事になるかもしれない。あるいはもっと男性アイドル達に貢献しようと、その業界に携わる道に進むかもしれない。例えば専属のメイクアップアーティストになったり、歌を製作したり、ダンスを教えたりする職に就くのもあるだろう。全てのファンが趣味に留まらず、間接的にある分野に進むとは言えないが、しかし下らないものに熱意を持っていると思われがちな行動も、視点を移しさえすれば、何か偉大な業績に繋がることだってあるのだ。このような熱意を妨げる行動を迂闊に取るべきではないと私は思う。
 何かに対して熱意を持っている子供達は幸せである。彼等の衝動は内部に留まる事なく行動に移され知識の摂取に勤しむ。合理的に行動し、行動に常に利益という評価基準を置いている人間から見れば、彼等の行動は理解不能だろう、お金が増える事を自身の至福だと認識している人間達は、その認識により行動範囲が狭まっていることに気づいていない。そして見えなくなる範囲が狭い程、ビジネスでの成功が遠ざかるばかりか自分が幸せと体感できる機会を損失してしまうことにも気づけない。熱意の無い人間はとかく社会の評価基準を自分の価値観へと内面化する傾向がある。大多数の人間達が諍いなく行動がとれるよう、政治、経済は整備され、集団が合理的に働けるように社会は機能しているが、このような機能化された行動様式に価値基準を置いた人間達は即物的な成功のみを求め、未知の分野の開拓に伴うリスクを避けるようになる。大多数の人間達が社会における価値観を自身の幸福と捉え始めれば、それは進歩の放棄を意味していると言えるだろう、あるいは合理的な行動を良しとする社会では熱意を忌避する価値観を形成しやすいと言えるかもしれない。
 熱意が無ければ人生における楽しみは大いに減る事だろう。世の中には汗水流してお金を稼いでいる人達が大勢いる、彼等は生きるために働いていて、自身の給与が増えることを喜ばしい事と感じている。彼等は時折テレビから流れるスポーツに夢中になり、自分がひいきしているチームが勝利すると、まるで自分の事のように喜ぶ。仕事が終わればスポーツを観戦するという行為を繰り返し、明日もチームが勝つ事を望んで就寝する。チームが勝利する事と彼等の仕事の成果には何ら因果関係は無い、そのスポーツが無くても仕事は回るし、生活が脅かされる事はない。しかし彼等にとってスポーツは人生の楽しみの一つである。お金を稼ぐ事と好きな事が一致している人間は少ないかもしれない、彼等にとって仕事はやりたくない事の連続かもしれないが、熱意を持って夢中になれる対象がある限り、彼等は毎日がつまらないとは微塵も感じないだろう。恐らく熱意が持てる対象が増えれば増える程、人間の寿命は限られていて、好きな事を存分にする事が出来ないと感じている人ほど、毎日が楽しいと感じているはずだ。自分が夢中になれる物を自ら導き、それにはまり込む子供達は大人達以上に人生を謳歌していると言える。
また何の価値の無いものを楽しめる人達は視野が広く、客観的指標以外の判断基準を持っているという点で柔軟な生き方ができる。彼等は時として新しい価値観を生み出しお金を動かすビジネスマンになれるし、そのビジネスをつまらないものと捨てて再び別の楽しみに没頭する事もできるだろう。また得てしてこのような人達は社会からはみ出し者と評価されている人達の理解者にもなりえる。多様な生き方を好む人程、相手の価値観を最初から否定することはなく、理解に努めようとするだろう。人と関わる事よりも何かに夢中になっている子供に対して直ぐに、内向的だと判断するのは間違っている。彼等もこのような社交性を身に着けられる場合があるのだ。
さて話を纏めよう。あなたの発言である、「私の子供は学業に熱心ではないので困っている」、について私は子供達は別の視点でもって学校に通っていると述べ、二つの意見を挙げた。一つは学業が不振だからといって社会的に不都合であるという理由はどこにもないという事。あなた自身が成績と社会的成功の因果関係を説明できない限り、子供達はあなたの意見に納得しないだろう。そのような曖昧な認識のもとで勉強しなさいと子供達に説教しても無意味である。実感のわかない子供達は、「何故か大人達が行けというから」、という理由で学校に通い授業を受けている。その授業に対して熱意を持てるかどうかは彼等しだいで、高い成績を取らなければいけないという意欲が自然に発生する事は無い。彼等に勉強を促すには、「ちゃんと学業に専念しなさい」と彼等に述べる前に、親であるあなた自身が実際に学業と社会との関係を体感する必要があるのではないだろうか。
そして二つ目はあなたが思っている以上に子供達は日常において学ぶという行為を行っているという事。大人と違い、知識量が浅い子供にとって周囲の環境は魅力そのものである。彼等は自分自身の行動原理を説明するのは難しいかもしれないが、自分が虜になっているものの何が面白いのかは、恐らく把握している事だろう。比較的自由な時間が与えられている彼等は、その時間全てを自分が好きなものに投じたいと願っていることだろう。好意の対象の知識量を深め、情報の体系化を図るかもしれない。これは教育機関において行われる学習という言葉の定義から外れるものだろうか。私の目には子供達は日常的に学習という行為を行っているように思われる。そしてそれと同時に私には、それが学習ではないかどうかを決定しているのは彼等が成長した後の姿である大人達であると認識している。私が思うに子供達の柔軟性に対して大人達は固い思考を持っている。子供を指導するのは大人達であるのは当然の事だが、大人達は成長に伴い社会性を身に着ける傍ら、何等かの熱意を捨てて社会的地位、換言すれば自身の生活に関する事ばかりに興味を置いているようである。彼等の指導方針は社会に生きる上で恐らく正しいだろうが教育機関に持ち込むのは愚かな事だと個人的には思う。このような考え方を教育機関に転用した場合、どのような状況に陥るか実験的に記述してみる事にしよう。
 上述した私の意見を反故にし、全く逆の立場から記述してみよう、つまり、「1.学校から与えられる物を学習と呼ぶ」、そして、「2.子供達は1の学習に専念すべきである」、さらに「3.1、2、をこなせば子供は幸せになれる」、私が思うに、これらの即物的な考え方の危険性について語る事ができれば、子供達において熱意という行動原理がその子供の幸せに重要な役割を果たしている事を理解できるのではないかと思う。
 まず1について、1は様々な観点で語る事ができると思われる。例えば、学校で提供されるものは国家や私立の学校が各々の価値基準に沿って教材を選別し提供されるものであって、それらだけを学習と定義づけるのはおかしいという観点。また現時点で体系化されたものだけに拘るのは後々学問の発展を妨げるという観点が挙げられる。前者の場合、人間が教材を選別している以上、その選別者の主観が入る。仮に国家に従事している人間が教材を選別する立場に携わった場合、国家にとって不利益となる様な教材を選別する可能性は低いだろう。あるいはまったく逆の価値観を有した人間においても、そのような方向性でもって基準が固定化されるという点で変わりはない。これらだけを学習としそれ以外の物事を視野に含まないような指導方針は、学習というよりも選別者の思想の布教が適当であろう。子供達は何の知識も無い状態で教材を受け入れ、以後はその知識を基に行動を取り始める。既に別の知識がある場合、受け入れる知識を相対的に判断する事は可能であろうが、知識がまっさらな状態の子供達にこのような判断能力は無い。子供達に教育を施す前に、その教育の仕方を確立した教育者の理念を確認する必要性をあらかじめ子供達に教える事は重要な事のように思える。
さらに後者において、私達は生き物である以上、生存を前提とし種々の行動を選択している。簡単な例を挙げよう、自身の経済状況に直接関わる学問、例えば経済学、工業系の学問体系と、哲学、言語学などの学問体系、どちらがあなたに富をもたらせる可能性が高いだろうか。後者が現代の仕事に直接関係がある事は稀だと思われるが、前者は仕事に生かせる可能性が高い、よってあなたの将来の経済状況を優先した場合、前者の学問体系を選択した方が有益である。しかしこのような偏った学問の見方は学問の発展を妨げる事になる。なぜなら学問はそれ自体を目的とした研究活動であり、自己の利益などを考慮していないからだ。もし学問にこの理念が無ければ人類はずっと農作物を相手にしていたに違いない。我々は芸術等全く無意味な事に価値を見出し研磨しようとする、このような非生産的なものが人類が人類たらしめている事、突き詰めるとあらゆる物事を体系化し理解しようとする行為が人類と他の生物との違いのように思える。学問における偉人達の研究の動機のほとんどは自分の役に立つからではなく、自分の欲求に愚直に応対してきた結果がほとんどではなかろうか。彼等の知りたい、研究したいという欲求の蓄積が今日の学問の体系化に繋がっている。もし「そんなものを学んで何の役に立つんですか」とか「この学問は存在価値がない」と生徒達が発言し始めた場合、彼等は学問の意義を恐らく勘違いしている可能性がある、と同時に彼等は将来偉大な発明に至る人間の障害となる可能性も含んでいる。既に体系化された学問と比べ、新規に設立された学問は周りからの理解に乏しく、未知な部分が大半なため、その分野を学ぶことによる利点が不明である場合、上述のような非難をその学問に取り組んでいる人達は受けるかもしれない。このような非難が増えると体系化されていない新規の学問に取り組む事が困難になってしまう。学問の発展のためにも利益を重視した考え方や学問同士を比較しどちらが劣っているかなど、既に体系化されたものにのみ価値を置く行為は控えるべきである。
さて「1.学校から与えられる物を学習と呼ぶ」について、私は二つの観点を提示した。一つは、このような考え方は、教育に使用される教材を選別する人間の主観性が学習理念に多分に含まれている点を考慮していないという危険性、もう一つは、体系化未然の物を学問と峻別し、広範な学問の発展を狭める危険性がある点である。1の考え方がはらむ危険性について序列したところで、「2.子供達は1の学習に専念すべきである」について考えてみたい。
 子供達は実は既に学習的な行為を日常生活の中で行っていることを前に述べた。子供達と学習との関係性は前の言説で事足りると思われるので、ここでは別の視点から学習について語ってみたいと思う。つまり、「何故大人達は子供達に学習を強制させるのか」。私が思うに合理的な社会、あるいは機能的に成熟した社会において、学校という教育機関は個人の教育を受ける権利を享受できる場として機能しているというよりも、現代の家庭においては子供を預ける場として機能しているのではないだろうか。子供は学校に行くものという観念が当然とされる以前の社会では、子供は基本的には労働力の一部であった。親や兄弟、姉妹に交じって仕事をこなし、家族が生計を立てられるよう子供達は仕事に駆り出されていた。仕事以外に従事できるのは余裕のある富裕層のみで、そのような時代においてミドルクラス以下の人間達がお金を得る事とは無関係な知的活動に自分の子供の時間を費やさせるのは、まるで無駄な事のように思われたに違いない、というのも現代においても大半の親達が子供達に望むのは安定した生活が送られるような収入を得られるための地位獲得のための教育だからだ。子供が労働力の一部として認識されていた時代においては、親にとって子供を仕事に拘束し、自身は仕事に邁進できる事が、家族が生計を立てる上で効率的だったというわけだ。では現代においてもこの労働観念は家庭内に残っているのだろうか、私は現代においてこのような労働観念を引き受けているのが教育機関だと思っている。この観点に立てば親達が一律に子供達は学習に専念すべきだと唱える行動を説明できるはずだ。
 時代を経るに従い、私達は仕事に拘束される時間が増えているだろうと思われる。というのも生産性の向上により短い労働時間で十分な食糧を確保できる事よりも、食糧の確保以外の価値観を私達は生存の前提として完全に認識しているからである。それは人類が跋扈していた太古の昔には国といった概念が無かった事から想像できるだろう。現代の私達は政治、経済、国家を欠けてはいけないものと認識している、これらは人類史において短期間で形成された価値観であるにも関わらず、そして狩猟や農耕といった食糧の確保よりも現代人はこちらの方に時間を捧げている、それのみでは腹を満たすことはできないであるにも関わらずだ。基本的に現代に生きる私達は、どうやって明日を生きるか、どうやって腹を満たすか、といった物理的な食料の確保よりも、どうやってお金を稼ぐのかという風に思考が変換されている。がよくよく考えてみるとお金それ自体は何の価値もない紙切れであって、この紙はある物と交換できるという経済活動において価値を発揮する。そこで私達はこのお金を稼ぐ事を生きていく為に必要な事だと認識してしまっている。そして不思議な事に、太古の昔においては狩猟や農耕により数時間程度で終わった労働時間が、現代の高度な文明においては数倍にも延びるという妙な事態が起きているのだ。さて、文明が高度に発達する度に、労働時間は今後どのように変化するのかは面白い考察になりえるかもしれないが、ここでは親の労働環境と教育機関との関係について述べたいと思う。端的に言うと、労働時間が一日の約三分の一を占める現代社会の親にとって子供の存在は邪魔となりえるものだ。親が仕事に出かけている間、子供達の世話を誰がするだろう、子供を付きっ切りで面倒を見た場合、労働に支障が出るし、家に帰宅した後に子供の面倒を見るのも煩わしい、明日の労働の為にも休息時間を確保したい、託児所のように機能してかつ、成長に伴いこちらの労力をかけずにそれ相応の教養が自動的に身に着けられる場所、それが彼等にとっての学校の認識ではなかろうか。この認識なら無思慮に「子供は学業に専念すべき」という発言の背景も分かるであろう、言い換えると親達は出来るだけ自分の時間が欲しい、あるいは子供達に対して親達は「自力で生きていく為の能力」を育てる力が無いと言えるかもしれない。もしあるとすれば社会において学校の成績よりも重要な要素が自身の人生を決定する事がある、ということを知っているはずである。このような認識に立てば子供を学習に拘束するような行動にそこまで利点を感じないだろう。
機能的に成熟した現代社会において、役割を細分化し効率化を図った結果、本来なら付けるべきではない所まで優先順位を付けてしまっているという事があるかもしれない。「子供は学業に専念すべき」という発言を子供に対して繰り返す親の場合は、「子供の為の時間」よりも「一人の人間としての時間」の方が優先順位が上だったと言えるのではないか、そのような親は子供の気持ちを共感できる才覚があるとは思わないし、率直に言うとその親の元に生まれた子供は不幸だろう。
 別の観点からはこう言えるのかもしれない。現代の親は果たして全く学業が出来ない我が子を愛せるかどうか。換言すると、あなたが重要だと思ったものを子供が拒否した場合、あなたは子供の意思を尊重できるかどうか。前の章で述べたようにあなたの価値基準は基本的には親の刷り込みにより形成されている。かつては親の価値観に反抗的になった時期があるかもしれないが、人格形成に関わる初期の発達段階において親と衣食住を共にしたあなたは最終的に親の大半の価値観を取り入れるようになる。さて、あなたが子供を持った場合、あなたの子供があなたの教育方針に反抗的になった時、あなたはどういう対応をするだろう。もしあなたが親から厳格な教育を受けた場合、子供の考えを退ける可能性が高い、何故ならあなた自身がそのように育てられ、子供の反抗的な態度を許容する事はあなたが成長するに伴い刷り込まれてきた人生観を大きく否定する事になるからだ。あるいは、自分が親から受けていた理不尽な命令を子供に流すことによって自己の人生観を肯定するようになるかもしれない。そしてあなたの指導の元に育った子供はあなたと同じ価値基準を自分の子供に強制するようになるだろう。
この事から親の愛情とは、つまり本当に子供の為を思って、子供の意思を尊重するような行動を取れる事は、自身のエゴを超えていると言えるのではないか。愛情とは自分の価値基準を超えたものを受け入れる事を言うのであれば、社会的に全くの無能でも自分の子供を受け入れる親は愛情を持っていると言えるし、その子供は親から愛されていると言えるだろう。
 話しを纏めよう。「2.子供達は1の学習に専念すべきである」という主張に対して、冒頭で論説してきた事は有効である。つまり、親は学校の成績と社会的成功の因果関係をよく把握していない、というよりほんの数個の科目の成績が社会的成功に結びついていると過信しているように見える。自分自身でこれらの因果関係を説明出来ない限り、子供達は理不尽に学習を強制されていると認識するだろう、それは子供に悪い影響を残すばかりか、熱意という感情を損失させ、子供の知的活動を阻むことにも繋がりかねない。自ら説明原理を提供できなければ、「子供達は学習に専念すべきである」という発言は控えるべきである。そしてこの章の後半では新しい論説を挙げた。このような発言を繰り返す親の背景には、親のエゴが隠されている。つまり、子供の為を思っての発言が、実際には自分自身の為に言っている可能性がある。その発言の本来の意図は、親としての体裁を守りつつも、自分の時間を優先できる事、親として子供が自力で生きていける能力を育てる力を問われることが無くなる事、そして自分が親から刷り込まれた価値基準を教育方針として子供に刷り込ませる事で、自身の人生観を肯定できる事、これらが学業と社会的成功の因果関係を説明できないにもかかわらず「子供達は学習に専念すべきである」という発言を子供に述べる親の胸のうちではなかろうか。
これら全般に言える事は愛情の希薄さだと思う。効率性の向上、合理化の果てに、本来なら論理を持ち込んではいけないものにまで論理という物差しを当てはめてしまっているのではないか。社会の構成員としては存在ががちっぽけである子供達は、物には論理を当てはめてはいけないものがあるという事を良く知っているように思う。彼等の興味に向ける熱意には個人の利益が含まれないことがほとんどだ。自分が得をするから、不利益を被るからという価値基準を超えた物に彼等は駆動され、それ自体が楽しいという感情に浸り、その行動を続けている。このような熱意の衝動が人類が他の生物よりも大きく躍進した原動に他ならないだろう、と同時に親にもその行動を助長する本来の性質を備えているはずだ。彼等の熱意を観察しつつ彼等の意思を尊重してあげるのが親としての愛情ではないだろうか。
 ここまでは「1.学校から与えられる物を学習と呼ぶ」、「2.子供達は1の学習に専念すべきである」について、色々な観点から述べてきた。基本的にはこれらの主張の問題の根幹にあるのは早すぎる最適化だと思っている。現状において経済的に最大限の利益を得られる物事を、貴重な教育期間を設けられている子供に押し付けるのはよろしくない。というのは私が経験した範囲内で言えば、大抵の大人達の思考には柔軟性が無く、過去の慣習を守る事を進歩だと認識している。この因習に染まった人間達が一度自分の思考を取り払い、新しい価値観を構築するのは、ちょっとやそっとでは上手くいかない。それに比べて子供達は可能性の塊であり、彼等は古いと新しいという価値基準を持ち、新しい物に飛びつく性質がある。彼等に足りないのは年齢に伴い積み重ねられる社会性や知識であって、相対的に物事を評価するのは大人と比べて洗練されている事があるかもしれない。というのは大人の場合、知識量が多いとは、ある意味その知識外の様式で見る事が困難であることも指している、まるで言語で記述されると、記述外の表現での認識が不可能になるように。熱意に駆り出された彼等の行動は、知性を伸ばす最高の契機となりえる。大人達から見ると、なんと無駄な事に取り組んでいるんだろうと感じられるものほど、彼等は未知の分野の開拓者として活躍する可能性を秘めていると言えるのだ。そのような可能性の担い手達を近視眼的に学校の成績のみで評価するのは、もったいないことだと思う。
ここまで語れば、「3.1、2、をこなせば子供は幸せになれる」について、ぼんやりと抱いていた感情が明確に浮かび上がってきたのではないか。短絡的な幸せの図式はあなたが考察する余地を奪うと同時に、一人の人間の幸せを奪う事にも繋がりかねない。子供は私の言う通りに従っていれば幸せになれる、というのは親の限界を子供に踏襲させる行為と言い換える事が出来るだろう、それは親のエゴと同義であり、熱意を損失させる行動となる。前の章を読めばわかる通り、幸せの定義は個々人で違う。何が幸せかどうかは一般化は出来ないかもしれないが、少なくとも自分の幸せを相手に強制させるのは、自分の人生を自由に選択できないという意味において不幸である。逆にあなたが子供達の意思を尊重してあげれば、彼等が幸せを感じる機会は多くなることだろう。
 「私の子供は学業に熱心ではないので困っている」という発言に立返れば、もしあなたの子供が発言の通り学業以外のものに熱心に取り組んでいる場合、あなたはその子がより幸せを体得するために何ができるだろう。仮にあなたの子供の行動が社会の評価基準から逸脱し、社会からあなたの子供は落ちこぼれだと評価された時、あなたは自分の子供の為に何をしてあげられるだろう。この章を読めば自ずとあなたが取るべき行動が見えてくるはずだ。



 
3 愛情


 幸福について語るのに愛情について言及するのは不思議な事だ。愛情とは時に人を駆り出させるが、いつもこの感情は我々に幸福をもたらすとは限らない、むしろ人を不幸に追いやる事もある、例をあげるとすれば愛情の欠乏による自死だろうか、あるいは愛情という概念を知る事が出来なかった成り立ち故の不幸だろうか。いずれにせよ、異性同性を問わず、慈愛といった概念は人に多大な影響を与える。
愛情について言葉で定義をするのは難しい、というのは言葉で説明できた場合、それは愛情について語っていない事と同義になる。愛情は抽象的な体感や行為であって、言葉で理解できるのであれば我々はこんな煩わしい物に熱意を注ぐ事はなくなるだろう。愛について抽象的な表現を用いて説明するのであれば、利害を伴なわない行為と言えるのではないか。これは熱意の構造と似ている部分がある。
人は知性や利害とは別の評価基準を有している。事細かく見ればたくさんの性格でもって自身の行動を評価、促進しているだろう、例えば自信、悲哀、妬み、憧れ、である。これらは感情に区分される要素であって自分の利益、不利益を問わず、無尽蔵に湧いてくる。あなたが誰かに好意を抱いた場合、あなたはその人と接する機会を増やそうと躍起になり、周りの目線を気にせず自分の計画に没頭するようになるだろう。あなたが好意を抱いている誰かが、あなたではなく別の誰かを好んでいると知った時、激しい失意と同時に、その人物に対して妬みの感情が湧き起り、自身の感情を解消するためにあなたは行動に移す。仮に自分に何らかの不利益をもたらすとしても、あなたは衝動を抑えられず実行することだろう。私の経験則で言えば、感情的になる人間は愛情深く、何事に対しても多感であり、良くも悪くも人から影響を受けやすく、他人に干渉しがちであり、一言で表すると生き方が不器用である。では最終的に彼等は悲惨な人生を迎えるかと言うと、一概にそうとは言えない。というのは人というのは自身の利害を超えて行動できる人間に強く惹かれるからである。
長く人と接してきて、感覚的に分かったのは、このような感情、あるいは感情的な表現は人に伝播する。あなたは知人や友達の他人に対する仕草から、この人が誰に惚れているという事を感じた事は無いだろうか。あるいは他人と会話をしている時、言葉で言い表さずとも、相手が全く自分との会話を楽しんでいないと分かる事があるだろう。そのような感情から、あなたはさらに自己の感情を放出し、相手に別の感情を湧かせることもある。このように感情とは表現であり、相手に対するコミュニケーションになる。重要なのは幸福とは感覚であり、あなたの感情の如何によりこの感覚は変化する。という事はあなたの幸福は他人の感情により振り回される事がある、と同時に、あなたの感情表現は他人の幸福に関与しているとも言える。例外なのは客観的に自己を俯瞰でき、物事を全て合理的に判断する冷血漢ぐらいである。
 この事は前の章と関係する重要な事かもしれない。幸福の定義は人それぞれ異なる事を各章で述べた、例えばある人にとっては本の些細な事でも、ある人にとっては希求するほどの物であったり、幸せを感じるという事がある。また、スポーツ観戦といった所得の向上とは何ら関係のない日々の余暇が、当人にとっては至福のひとときとなる事も述べた。これらに共通しているのは、絶対的な基準があるわけではなく、受け手により対象に対する感情は変わること、そして一度その感覚を気に入った場合、その感覚に拘束される、あるいはジャンキーのようにその感覚を求めるようになる。前述の例に当てはめると、ある特定の人に愛されたいという愛情の希求、そしてスポーツを見るという事を日課としその生活を続ける事が幸福であり当人の行動様式を拘束していると言える。
 面倒な事に、このような熱意の性質を持った行動様式は負の側面を持つという事がある。例えば妬みの感情は基本的には良くない衝動だろう。ある男性がある女性を好きになったとする。意中の相手が誰かと既に付き合っていた場合、男性は彼女達が破局に向かうよう画策するとしよう。彼は他の選択肢を鑑みる事なくこの計画に没頭し、自身の行動の全てをこの計画に束縛されることになる。意中の相手と付き合っている人間の関係を破局へと向かうよう、彼は計画に邁進することになるが、お分かりのようにこの計画のゴールには他人の不幸が含まれている。
この話は思考実験においてのみ起こり得る事ではなく、実際問題私達はこのような出来事に遭遇する事はあり得る。特に卓越した能力を持った人間にこの事が起きやすいように感じる。アルベルト・アインシュタインは物理学においてその名を轟かせる偉大な業績を残したが、彼のエネルギー全般に関する有名な公式は、市民を大量に殺戮した原子爆弾の試算に使われる事になる。原子爆弾の使用に対してアインシュタインはどのような反応をしたのかはわからないが、彼の功績が人間を大量に殺す事を目的とした兵器の開発に寄与したのは、あまり良い気分ではなかっただろう。死の商人と呼ばれたアルフレッド・ノーベルは後に総資産の殆どをノーベル賞の制定に投資した事から、名声と富を得て、幸せの渦中にいながらも、それに付随して人の不幸を引き起こしているという事実は死してなお払拭したいものだったらしい。もっとも上述した妬みの感情を持った男性の例の場合は、意中の相手とその付き合っている人物が不幸になるのを喜んで実行するだろうが。
 よくよく考えれば愛情というのは最も原始的な幸福の獲得かもしれない。私の近辺にとある女性がいる。彼女の家庭は貧乏で子だくさんであり、彼女は終始家事に追われ傍から見ると余暇も無く、あまり幸福に見えなかった。しかし、彼女が言うには子供達の笑顔は自分の宝物だと言う。彼女の表情からそれは嘘偽りなく心の底から日常的に感じている事のようだった。彼女にとってはお金や自由な時間などは価値のあるものではなく、子供の存在とそれらは天秤でつり合うものではない。彼女にとって母親としての愛を子供達に注ぐ事は幸福そのものだったのだ。
 現代においては多様な価値観の許容から、愛情や恋愛に無頓着な人間が認知されている。彼等は時として、恋愛に躍起になり異性にばかり現を抜かすような行動を蔑み、それらを動物的で本能でしか生きられない人間であると嘲り笑い、知的探究心に至上の価値を置いている。私から言わせれば彼等は損な生き方をしている。彼等からすると貧乏で子供にかかりっきりとなる例の女性を不幸の渦中にいる存在だと認識するだろうが、彼等はその原始的な幸福を体感できないがゆえに夢想的な幸福ばかりを追いかける事になるだろう。子供から大人へと育ち、異性と恋愛をするのは新しい家庭を築く一つのステップである。同棲生活は共同体を構築する前準備でありお互いが関係を維持するには、相手を良く知る事が必要になる。さらに家庭を築けば責任能力も付随する。親としての役割や子供に時間を忙殺される日々を務めとし、子供が一人の人間として正しく生きるよう、子供達のために親は生きるのだ。さて、このようなプロセスを経ずに己の好奇心ばかりを愚直に求め、大人になった人間達は果たして知的であり、先鋭的な人間であろうか。私からすれば、自分以外の人間の為に生きる事、他人の為に責任を負った事の無い人間は非常に弱い。恐らく自身の夢の成就すらままならず、夢想的な毎日を過ごすという人間が大半ではなかろうか。彼等に不足しているのは、自分とは異なる人間を理解しようとする態度と、人間関係から繰り出される煩わしさから生じる失敗などの経験ではないだろうか。一人一人が何らかの目的を持ち、お互いが挫折したり意気消沈する、酷い経験をする事もあるだろうが、大抵人間の生き方を強く変えるのは人間であり、支えるのも人間である。特に夫や妻は助けとなる存在だ。そのような存在を欠いており、様々な人間模様を経験出来ない事は、やはり損な生き方をしていると私は思う。
 最初にあなたが受ける愛情は基本的には親から受けるものだろう、動物達の例に漏れず、自身の血筋を受け継いだ我が子は可愛いものである。そのような存在を慈しみ育て上げ、次世代に滞りなく自分達の血が受け継がれていくよう、親達は愛情を持って我が子に接する。親から愛情を一身に受けた子供は自分を蔑むような事はしないだろう、彼等は自分の能力を肯定し、他人の能力も賛美し、上手く社会に溶け込めるようになる。多様な交流の中で家庭を持つに至り、自分が親から受けた同等の愛情を子供にも注ぐようになる。このような観点に立てば、愛情を十分に受ける事は本人の為にはもちろん、当人達の血筋の連続性を保つという意味においても有効である。また知っての通り、愛情は血筋に限定されない。人間の愛情は人間以外の動物と比較して愛情という感情が高度に発展したのか、血の繋がりの無い人間に対しても我が子という認識で愛情を持って接することが可能である。私達は他人に対して共感能力を持ち得るし、自分の事のように認知できる。不遇な環境に生まれた子供達に救いの手を差し伸べたり、彼等の未来での成功を願う事もあるだろう。そしてこのような援助の元に育てられた子供達は大人になって恩返しをしようと自分と同様に不幸な境遇にいる人間に対して救いの手を差し伸べるようになるだろう。というのは人というのは自分の幸せの為だけに生きられる程、孤独に耐えられる動物ではない。親が子供を育てるのは当然だが、そのような関係性を持たない人間から様々な支援を受けるという事は、その援助者の幸せの中に自分の幸せも含まれている事になる。そのような境遇の中で育てば、嘗ての自分と同様に苦しんでいる人間達を見過ごすような性格にはならない。
このような血縁や世代を超えた愛情の連鎖は素敵なものだ。そこには不幸な人間は少なく、誰もが他人の成功を称賛し、他人の悲しみを労わる世界になるだろうが、世界がこのような状態を維持するには恐らく自分の子供と近所に住んでいる他人の子供とに優先順位を付加することなく、同一視出来るようにならなければ不可能だろう。そして殆どの親達にこのような事は普通はできない。人間以外の動物達からは当然ながら理解不能な行動だろうが、そのような動物的本能からは外れた人間の深い愛情に接した時、強い感銘を受けるのは当然の事かもしれない。
 残念ながら親から子へと受け継がれるのは良い要素ばかりではない。私の聞いたところによると、親から虐待を受けて育った子供は、大人になって自分の子供にも同様の事をしてしまうらしい。当人の頭ではいけない事だと分かっていても、自分の子供に過去の自分が体験した辛い出来事を経験させてしまうのは、形式的な子供の育て方を実践するにあたって自分の親の育て方を真似るのが最善の手段であると頭が認識しているからだろうか、あるいは自分が受けたストレスを解消するために体が本能的にそのような行動を取ってしまうからなのか、いずれにしてもこの例から解るのは、幼少期における愛情の有無が大きく当人に影響を与える事と、望んでいない不幸の連鎖が世代を超えて起こるという事である。
 愛情の飢餓がもたらすのは自分自身に対する劣等感だろう。あなたには例え社会的な評価が散々であろうと、自分を認めてくれる場というのは存在しているだろうか。会社ではお荷物的な存在で、仲間内ではいない方が仕事がはかどると囁かれる程、あなたは仕事でうだつが上がらない存在であったとしよう。お金を得る為には働かざるを得ないが、恐らくこのような環境から逃れたい、逃げたいと思うのが標準的な反応ではないだろうか。しかし、劣等感に苛まれるような環境に置かれようが、あなたを認めてくれる存在、場所がたった一つでもあれば、あなたの胸の閊えはぐっと和らぐ事だろう。人は他人から罵倒や嘲笑を受けると悲観的になり、まるで世界中の人間が自分を蔑んでいるような認識に陥る事がある。この状態は当人の思考に消極性をもたらし、客観的な視点に立てず、現状を打破するような行動を喚起しにくくなる。しかし、もし自分を励まし応援し支えてくれる存在が一人でもいれば、自分に対する世間の評価を相対化し、感傷にずっと浸ることなく現状に立ち向かっていくだろう。これは社会人の例の場合だが、子供の場合、いかなる状況においても子供を支えるのは基本的には親である。病気を患った場合、看病をするのは親、人生の岐路において助言をするのも親である(と同時に子供の人生の選択に親は大きく関与することにもなるが)、苦境に立たされた時、最も身近に存在する支援者は親である。成人へと成長する段階において、親の愛情を受けずに育つ事は自分の幸せを獲得するのに枷を付けられた状態と同義ではないか。何の成果や能力が無くとも自分を支えてくれる身近な存在を欠く事は自己肯定感の希薄さを招きやすい。どんな状況に追い込まれようが自分を認めてくれる存在がいれば人は困難に立ち向かえる、そのような存在や愛情を欠くと何事に対しても忌避的な行動を取りがちになり、他人に対して劣等感が湧いてくるようになるだろう。自己肯定感の低い人間は常に他人と自分を比較し、物事を消極的に捉えるようになる。自分の将来に対して悲観的な感情を持ち、他人が夢に向かって邁進している様を見下すことで現状に対する不満を解消するようになる。あるいは本来なら親から受ける愛情を得られないがゆえに、自分自身を貶め、素行の悪い行動を繰り返すようになるかもしれない。子供が反社会的な行動を取るのにいくつか理由があるだろうが、親の気を引くためというのもあるだろう。未成年の非行は親の監督責任となる、責任を咎められた親は子供を叱るか、非行を修正しようと子供に付き添うことになる。自分の気持ちを察して欲しいがゆえに他人を巻き込んででも非行に走るのは歪んだ愛情の希求であり、結果的には自分を貶めている行動である。大抵の成功者は式典等で自分の功績を称えられる際に、自分を支えてくれた存在を挙げて感謝の気持ちを表するが、これは苦境や困難を乗り越えて成功を掴むのに、自分に付き添い支えてくれる存在がいかに重要かを示唆している。と同時に誰からも愛されず、誰からの支えも得られないという状況は人に絶望的な感情を抱かせる事になるだろう。
 あなたが子供の時には親から愛情を受けるだろうが、親はいずれあなたよりも先に死ぬことになる。そうなると、残されたあなたに愛情を与えるのは他人である配偶者ではないだろうか。私の感覚で言えば、親子間の愛情は一方的なものだが、男女間の愛情は双方的な物である。男女間で一方通行の愛情というと、ストーカー的な行為だろうか、これは受ける側にとっては愛情とは認識されていない迷惑行為だろう。男女の関係を眺めていて思うのは、愛情と結婚は峻別されなくてはいけない。同棲生活をしているが結婚をしていない男女には愛情が無いとは言きれない。彼等は種々の理由で結婚という選択をしないであろうが、彼等は時として結婚をしている他の夫婦よりも熱烈に愛し合っている事がある。逆に結婚をしているからと言ってその男女間に愛情があるとは言い切れない。その場合の大抵の理由は体裁やお金の為であろう。愛情を糧に家庭を維持している人間にとって夫婦間に愛情が枯渇した場合、それは家庭の存続にかかわるという認識になるだろうが、愛情も無く体裁やお金の為に結婚をしている人間にとって、愛情の枯渇は問題とはならない。その場合は金銭関係により当人達の感情が変わる事になる。果たして体裁やお金の為に他人と同棲をするのが当人達の幸せになるかは知らないが、即物的な指標のみで同棲を決めるのは愚かな行為の範疇だろう。同じく経済的状況を鑑みずに恋愛感情のみで結婚に至るのも不器用な恋愛観のように感じる、というのは私が現実的な考え方の持ち主だからだろうか。しかし実際問題愛情だけで家庭内の様々な事象を乗り越えられるというわけではないみたいではある。
 愛情は形から成立する事も可能のようである。とある夫婦はお見合いといった形式的な面会により縁談がまとまり、親同士の勧めで本人達はあまり気乗りしないながらも結婚に至っていた。当初その夫婦は相手を他人行儀に振舞い、あまり親密な関係ではなかったが、夫婦生活を続けるにあたりお互いを良きパートナーとして認識するに至っていた。相手の素行を知らずに共同生活を始めるのは、かなりのストレスが伴いそうだが、案外相手の事をよく知らないが故に家庭を維持するにあたって相手を理解しようと志向し親密な関係へと発展するかもしれない。個人的には、外見が好みだから、性格が好みだから、経済力があるからといった個人の好みは家庭を築き夫婦関係を維持するのにあまり寄与していないように感じる。むしろ第一印象が強固に形成される分、同じ空間に長期間一緒にいて、思っていた人物像とは違う人間性を垣間見た時、失望と同時に好きが嫌いへと変遷し関係が終わる事になるかもしれない。個人の好みを重要視するよりもお互いのゴールを共有し協力し合うのが良き関係を維持する秘訣ではないだろうか。私は現代の恋愛感情に対する美辞麗句的な言葉は、本当の愛というのを見えにくくしているのではないかと感じている。運命だとか宿命といった言葉は二人の出会いや馴れ初めを装飾しまるでフィクションの中の主人公達のように二人の関係性を演出できる。しかし愛情とはそこまで高尚であり、高遠なものだろうか。上述したように人というのは自分の為に生きる程、孤独には強くなく、支えや愛情といったものを求める種である。今現在どこかの誰かが助けを必要としている状態にあるだろう、それに対して誰もが支援者になれるし、ほんの手助けのつもりでも当人の幸せへと繋がる行為となるかもしれない。誰かを手助けするのに理由など必要ではないであろう、と同時に、あなたが異性を愛し幸せを願うのに荘厳な動機や言葉など必要であろうか。



 
4 家族


 親子関係については幸福を獲得するにあたってどれほど重要か再三述べてきたが、ここではもっと詳細に家族という場について論じてみたい。私達人類は医学上二つの性別に分ける事が可能である、すなわち男と女である。この区別は人類にのみ見られるものではなくあらゆる生物において普遍的に見られる分類である。よくよく考えると生命におけるこの当たり前の現象が奇妙なように感じないだろうか、私達は普段は他人と自分を分けて生きている、あなたが誰かと間違えられ、終始その人物だと認識された場合、あなたは不愉快に感じる事があるかもしれない。あるいはこの人の所作や性格はあなたとぴったり同じなんですと言われた時も、本のちょっと自分とは違う部分を探し、自分と相手を区別するよう試みる様な態度を示すかもしれない。それよりも、一般的にはあなたはオンリーワンな存在であると言われた方が嬉しい場合が多いだろう。私達は社会へと繰り出す際に肩書や経歴、あるいは国籍など様々な情報により自己というのを認識され、他の人とは区別されるのだが、こと男性という分類上では、この宇宙に生息している男全てにあなたは包摂され認識されるのである。未知の国、未知の文明でもそこにいる男性とあなたは同じように括られる、これは奇妙な様相だと定義するのは少し過剰な反応だろうか。とはいえ全く関わりの無い人間や見た目も育った環境も違う外国人でも、男という括りの中では異性に関する事や同性に関する事などの話題を共有でき、仲間意識を持てるのは不思議な事である。あなたが男の場合、この女性はとても性的魅力を有しているといった話題には簡単に興味を持つことが可能であろう。
さて、このような分類と仲間意識は女性にも当てはまる。恐らく一人一人は違う人格を持ち、各々別々の価値観を有しているだろうが、男から見れば女性という単一のモデルとして彼女達は認識され、そして女からは男を同様の視点で認識する事だろう、そしてこのような抽象化された男女というモデルが家族という共同体を構築するのは不思議な事だ。ただでさえ仲間意識を持てる同性の間でも私達は自分と他人を区別している、そのような感覚を持ちながら、異性という全く違う価値観を有している存在と何年にもわたって同居し続けるというのは奇妙な有り様と思わないだろうか。面白い事に私達はそれを自然な事と認識している。しかしその自然な事が、どのように人々に影響し、どう幸福の獲得に影響しているのかを私達はあまり理解していないのではないか。
 家族という根本的な構成が当人の人生にどう影響を与えるのかを一般化して語るのが困難なのは、そこに排他性があるからだと思われる。私は政府機関が喧伝する幸せな家族のモデル等にあまり共感できない、あるいは政府といった大仰なものでなくても、少女漫画によくある卓越した経歴を持つ人間達を両親とする平均的な主人公の家族構成もそうである。親の収入により子供の人生の選択肢が制限されるのは確かであるが、大富豪の元に生まれたからといって容易に幸福を獲得できるかというとそれは誤りである。というのは歴代の偉人達の家庭環境の殆どが、大金持ちという環境で占められているわけではないからである。ここから分かるのは両親の業績や才能といったものが子供に影響を与えるのは幼児から成人までの人生におけるほんの少しの期間でしかないこと、そして偉人の殆どが成人を超えてから業績を挙げるか、大衆に支持されるようになっている、つまり最終的に本人の夢や目標を達成しうるのは己の能力にかかっているという、ごく当たり前の摂理を表している。環境に恵まれていようが、才能が無ければ秀才の一言で終わってしまうのだ。
 一般的な幸せな家族像というと、裕福であり立派な家を持ち、家族が団欒できるよう親は労働に時間を割かれる事は少なく、子供は数人おり、また近隣住民とは家に招待するような親交の深い間柄であるという感じだろうか。これが核家族化の進んだ現代社会の理想的な家族像だと仮定すると、このような家族形態を体している家庭がどれぐらいあるだろう。私には現実的な家族像には見えないし、これが目指すべき家族の在り方ですと画一的な基準を庶民に植え付けているのではないかと疑いたくなる。というのはこのような家族像は数多ある家族の形態の一つに過ぎないというほど、家族の在り方には多様性があるからである。それは上述した多様な性格を持つ男女から構成される家族という場からも考察されるだろう。そして私はその家族からもたらされる幸せの基準には排他性があると穿っている。
 排他性とはつまりどれが最も幸せな家族像であるのか一様に決められないという事である。とある家族は子供達を連れて世界中を一台の車で旅していた。時間が空いている時は両親は子供の学習の面倒をみたりしていたが、それ以外の時間の殆どは車から景色を眺めたり、外国の文化に子供達を触れさせたりしていた。一般的な基準から見れば、子供が小学校等の学校教育を受けられない事は当人の人生に大きなハンディキャップを与えていると認識するだろうが、しかし世界中の子供達が経験した事の無いような貴重な体験をその子供達がしているのは確かである。時間の殆どを学校に拘束される子供の立場から見れば、彼等の子供の生活様式は異様であり、普通ではない。標準的な生活様式を取っていない家庭を理想の家族像と認識する事は、一般的な生活を繰り返している人間からは有り得ない事だろう。しかし私が見るに、彼等はとても楽しそうに家族一丸となって旅を続けていた。これは一つの理想の家族の有り方に含まれるのではないだろうか。
 現代社会の合理的な生き方が家族構成という原始的な共同体にまで及んだ結果、画一的な家族の在り方が大衆に支持されるようになったという側面があるかもしれない。慣習やしがらみに拘らなければ本来ならば自由な家族の在り方を提示してよいはずだが社会はそれを許さない。発明家のトーマス・エジソンは小学校の入学からわずか三カ月で退学となり以後は自宅で独学する事になる。これが学校教育のプログラムに抑制されない、エジソンの柔軟な思考の元になったと言われるが、現代では本人のために幼少期に学校に通わせずに自宅で自由奔放に独学させると言った趣旨を述べれば、親は育児の責任を果たしていないとレッテルを貼られるか、あるいは子供は親の思想の犠牲になっていると評価されるだろう。このように言うのは既に既定の家族のモデルを彼等が信奉しているに他ならない。そして詰まる所それらには社会における評判というものも含まれているのではないだろうか。
 例えばある家族は、家族との時間を一番重要視し、仕事を早期にリタイアし残りの預金で家族を養うと決意したとしよう。学校が終わり子供が自宅に帰ると両親が迎え、子供が外出する時も一緒に付き添っていたりしたとする。普段ならば働いている時間帯でもその家族は外出時ずっと一緒である。家庭を顧みずに仕事に奉公する人間にとってこの家族形態は奇異に見えるだろう。仮に社会全体がこの人間の価値観に沿っていた場合、働かないという選択をした親は、子供にとって良き親のモデルとはならないと認識されるのではないか。四六時中家にいる両親を見て、果たして子供達は社会に出て立派な大人になれるのだろうか、というように。
 これは特に突飛な考えではないと思われる。例えばあなたが異性愛者であるとした場合、ある同性愛者達が親となって子供を育てると言いだした時、あなたはどういう反応をするだろう。ある人は子供の立場を考えろと言うかもしれない。あるいは酷い場合は生物学的にそのような家族構成は存在してはいけないなどと述べる人間が現れるかもしれない。というのは家族というのは宗教観や社会情勢、政治の介入により、その形態を大きく変えられる部分であり、その土地に住む人間達の慣習が大きく表れる原始的な共同体だからである。ある国では一夫多妻制を当然と考え、またある国では政治によって子供の数が規定されるのを自然な事だと捉える事もある。そう考えると人々が画一的な家族構成を理想の形態であると認識するのは世界的な事であり、不思議な事ではないかもしれない。最も世界中を見渡せば、自分達が信奉する理想の家族像が、外国から見れば不自然に見られているという事を実感するだろうが。
 家族構成にはその当時の慣習が大きく反映され、人々は画一的な家族のモデルを信奉するだろうが、私の経験則からすると、男女の性格の組み合わせは多種多様で、この関係性にはあまり固定化されたものが無いように思う。私が見てきた良きパートナー達の例を挙げてみよう。
 とある夫婦の夫は才能豊かで何をしても人々から称賛されるような人間だった。結婚以前においても、彼はアートの世界でもビジネスの世界でも何をすれば上手くいくのか体感的に把握しており、ほんの少しの努力でその業界で成果を納める事が出来る非凡な才能を有していた。人々が彼に何を求めているかを理解でき、それを形にできる、彼が活躍出来ない業界は無いと思われていたが、一つだけ彼が不得手な部分があった。彼は性格的にはナルシストのような要素が幾分散見されたが(最も彼の才能ではそのような性格が形成されるのは自然な事のように思う)、人から邪険に扱われるような不愉快な人間ではなかった。当然のように女性関係の話に事欠くことなく、彼の周囲には必ず女性が付き添っていた。が、不思議な事に彼と面会する度に付き添っていた女性は次々と移り変わり、次第に周囲に彼には女性に対する付き合い方に何か問題があるのではと囁かれるようになっていた。
別れた女性達と会話して分かったのは、彼は自分と同等の能力を女性達にも求めていた事、自分の期待していた能力に彼女達が満たなかった場合、彼は酷く失望し彼女達に愚痴をこぼしていたりしていたという。そして最終的には、その状況に女性達はうんざりし彼から離れるか、あるいは彼自身から別れを告げ関係が終わる。この話を聞いて私は、彼は所帯を持つにあたって致命的な性格を有していると理解した。というのは彼を満足させるような彼以上の能力を有している女性はそう滅多にいないだろうと理解していたし、仮にそのような女性がいたとしても彼と付き合っても関係は長続きはしないだろうと理解していたからだ。実は彼の性格には自尊心の高さ以外にも非常に脆い繊細な性質を有していた。
 彼は自分自身の能力を自負していたが、時には自己評価があまりに高過ぎて、その評価と周囲の評価が一致していない場合、酷く落ち込み自己否定に陥るという極端な性質を有していた。彼は表だってそのような性質を人々に見せるような事は無かったから、周囲の人間は彼のその性質を知る事はなかっただろうが、彼とは深い関係にある友人達は時折見せる彼の繊細な側面を知っていた。恐らく短期間で関係が終わってしまった女性達は彼のそういう側面を覗い知る事はできなかっただろう。
仮に彼と同等の能力を有した女性が彼と付き合っても恐らくは長続きはしない。彼の繊細な性格ゆえに自分と同等かそれ以上の女性と対峙した時、彼は酷く自己嫌悪に陥る事が想定される、そうなると自尊心を保つために彼の方から離れるに違いない。私はそう彼の性格から予測していた。
 しかし意外にもある人物の登場により、この問題はあっけなく解決する事になる。察しの通り、今のご婦人が彼と付き合い始め最終的には婚姻を結ぶことになる。そして今現在も非常に仲睦まじい関係を保っている。彼とは蜜月な関係にある彼女は一体どんな人物かというと、彼に引けを取らない程、強烈な性格を持った人間であった。
 彼女を一言で評するなら、お喋りが好きな女性である。黙っている姿を想像できない程、口を動かし誰かと話している。その話の内容は中身があるようで軽薄であり、本人の意思の軽さを感じさせる程に彼女の口からでる言葉の端々には重みというのを感じなかった。彼女の感情表現にはある趣の演技的なものを感じさせる、計算めいたものが表出していた。外向的であり、自分が注目されなければ落ち着かないような性格であった。彼女が彼に纏わりつくようになった理由は、その性格とも関係があるだろう、というのは彼と付き添っていれば自分にも注目が集まるからである。彼が彼女と付き合い始めたと聞いた時、直ぐに二人の関係は消滅するだろうと思っていたが、実際は彼女程、彼の配偶者として最適な人物はいなかったのである。
 彼女は彼が求める物を持っていた。彼女の表面的な言葉の数々は意外にも彼の脆い精神を補ってくれたのだ。周囲の評価と自己評価がつり合わなかった場合、彼女は彼を励まし彼を支えていた。彼を支える彼女の言葉は多少演技的で誇張的な物であったろうが、彼の気持ちを高揚させるのに彼女の雄弁術は十分発揮していたに違いない。
 また彼は彼女が無いものを持っていた。それは注目を集める輝かしい才能である。弁舌爽やかで知り合いの有名人とさも仲が良い関係のように誇張した話をする彼女は、その実口から出る話の内容と同程度の才能を有していなかった。必死に自分に注目を集めるような演技的な話術は確固たる自信の欠如の表れであった。周囲の人間に左右されることなく自己を多分に評価する彼の若干ナルシズムの領域に入りつつある性格は、側にいるだけで彼女の自信の欠如という不安を解消してくれるものだっただろう。彼の傍にいるだけでいつでも彼女は二番目に注目されるという安寧の場を獲得したのだ。
 傍から見ると異様な夫婦である。夫は自信に溢れ、自分の才能を誇示し、他の業種においても自身の成功を当然とする異常な自己顕示欲の持ち主、かたやその妻は外向的で誰からも注目されるよう努め、話題の中心にいなければ落ち着かない人間である。豪華絢爛な振舞いをする彼等の姿は人々の目からは奇異なカップルに見える。しかし彼等と深く親交し、良く観察していれば、お互いの欠点を相殺し、自分の長所を維持できる最高のパートナーであると認識できるだろう。
 もう一つ良いパートナーの例を挙げよう。ある女性は異性を異常に希求する恋愛体質の持ち主であり、感情の起伏が激しい人間であった。彼女は付き合っていた男が彼女の元から離れるたびに、大勢の人が集まるバー内をうろつき、彼女と良好な関係になりそうな男を物色していた。自分の目にかなった男を見つけるや否や、その男に接近し会話を始め、親しい間柄になるよう努めていた。彼女は取り立てて素晴らしい容貌ではなかったが、女性自ら深い親交を男達に望む事から、彼女に言い寄られる男達は満更でもない気分のようだった。男達は何度も彼女と話し合う内に付き合い始め、同棲し始める。しかし彼女と生活を共にしていく中で、男達は彼女の性格に堪えられなくなり離れ始める。それは彼女のあまりに激しい感情の起伏のせいであった。
 何も起きていない間は非常に優しい性格で、朗らかな印象を与える彼女であったが、男の背後に他の女性の存在を感じるや否や、激情に駆られ、同棲している男に暴力を振るっていた。帰りが遅ければ他の女性と遊んでいたと疑い、近所に住んでいる女性と些細な会話をしようものなら浮気だと確信していた。暴力を振るわれる男はそのような事実は無いと必死に訴えようが、彼女はお構いなしに嫉妬し、二度とこのような事をするなと男を強迫していた。彼女は異性を信用するという行動よりもその瞬間の自分の感情を吐き出す事を優先しているようだった。
男達は彼女の信頼を得ようと、最初は彼女の言う通りに従うのだが、彼女の暴力は次第にエスカレートし、また彼女の束縛に堪えられなくなり、最終的には彼女の元から離れるようになる。
 男が離れた後、彼女は別人のように狼狽え、男にすがるように元の関係に戻るように懇願する。彼女の変わりように彼女は改心したと判断し、離れた男達は再びよりを戻すようになる。しかし、その後も相も変わらず彼女は激昂し、男達に暴力を振るっていた。
彼女の元から男達が離れるのは彼女の自業自得だが、彼女の悪意の無さが男達を彼女の元に引き留めた。それは男達にとって非常にたちの悪いものだったのかもしれない。「俺が親身になれば彼女は変わるかもしれない、現に彼女は自身の行動を反省し自ら俺の所に謝りに来たではないか」、と男達は考えていた。しかし彼女の感情の起伏の激しさが治まる事はなく、男達は失望し彼女の元から離れていった。そして彼女自身もこの性格に大いに悩んでいた。
 彼女の事を想うような行動を取れば取るほど、異性が傷つくようになる。それでいて彼女は異性が側にいないと何も出来なくなるほど精神的に脆い。彼女が自分の性格により、付き合う男全てが不幸に見舞われる事を自覚していたかどうかは知らないが、彼女自身はこの性格で自分が不幸になっているのを自覚していた。果たしてわたしは異性と関係を維持する事が可能なのか、そう思っていた矢先、彼女はある男と出会った。
 彼女は普段通り、異性がこちらに親密な感情を抱くようにその男に優しく話しかけた。その男は彼女の会話に応じたが、男の反応が他の男達とは異なる事を彼女は感じていた。バーに通う度に彼女は男に話しかけた、普段なら男側から誘う段階であったが、彼は彼女に対して何のアクションも起こさなかった。会話の中で彼は一人でどこかへ行く予定と述べるが、彼女を誘う事はしなかったのである。さらに彼は彼女が店内にいる事に気づいていても、まるで自分の時間に介入して欲しくないように、彼女を無視するような態度を取っていた。話しかければ会話に応じてくれるが、しかし自分から声をかけることは無い。そして彼と話していて感じるのはその冷淡な反応である。こちらが感情的に会話を展開しても淡々と返し、彼について称賛めいた発言をしても他人事のように返事をする、彼と彼女の間にはまるで見えない壁があるようであった。
 実は彼はある特殊な性格を有していた。それは自分が変わる事への恐怖である。親族以外に親しい友人も居なければ、異性と交際する興味も無い、一人で行動する事を好む彼は、他人と多分に接触する事により自分の内面に深く介入する事を不愉快であると感じていたのである。他者から見ると彼は何か行動を起こすエネルギーが大幅に欠けており、実際本人も自分はそのような体質だと理解していた。生きるのに数少ないエネルギーを余分に放出しないように他人の介入を排除し、行動は最小限に留めるため、自分の興味内で行動は完結する。彼には他人に影響を与える等の行動は命取りである。感情を変えない事が彼にとっての防衛本能であった。
この彼の性格は彼女とは対蹠的であった。彼女の感情の起伏の激しさは男達の反応に呼応し、感情の境界を絶え間なく行きかいする、その感覚は自己の喪失と似ていた。彼女にとってこの感覚は非常に苦しいものだったが、彼の冷淡な反応により彼女の感情の起伏にブレーキがかかり、恒常的な感覚をもたらした。彼と親密になろうが、愛情深くなろうが、彼はずっと他人行儀に彼女を振る舞うのである。それでいて彼が浮気をする事は無い。最初は彼の無感情な反応になれなかったが、次第に彼女は彼の側にいる事に心地よさを感じていった。
また彼も彼女の側にいるのは悪い気分ではないと感じていた。彼女のエネルギーに溢れ、積極的に他人と関わろうとする行動は彼に外向性をもたらした。どこへ行くにも彼女は彼の後に付いてきて、彼の素っ気ない反応にも愛想良く応えてくれる。彼の淡泊な愛情に失望すること無く無尽蔵に愛情を提供できる彼女は、実は彼が伴侶として関係を維持できる唯一の人間だったのである。後に彼らは結婚に至り、今も仲良しである。
こちらも傍から見ると異様な夫婦だ。夫は無愛想で一人の時間を大切にする。妻は愛情深く、常に距離感を保つ夫でも熱烈に愛している。彼等夫婦の関係は標準からは逸脱しているかもしれないが、お互いの短所を長所として補い合う最高の関係であると言えるのではないか。
 夫婦関係から子供の事について話を展開しよう。私が子供、そして子供を育てる親へと立場を変遷して思うのは、子供を育てるにあたって、父親、母親には役割が与えられているという事である。よく親子関係を述べる際には両親の子供に対する接し方というのを語られる。そして大抵そこで子供に接する対象として挙げられるのは母親である。恐らく育児という期間を考慮した場合、よく子供と接する機会が多いのが母親だからという単純な理由からであろう。それゆえに子供をどうやって育てるかといった話題には母親を積極的に引用し、父親は蚊帳の外として扱われがちである。男は働き、女は家事に専念するという旧態依然の社会では父親を除くこの説明の仕方に何の違和感も湧かないだろうが、私の経験上、子供は男女の両親からそれぞれ違った価値観を受け継いでいる。例え社会の価値観が父親を家庭から引き離そうとも、子供達は父性を求めそこから学ぶ事を欲しているし、母親が子供につきっきりでいても、母性が不足した父性の分を補うという事は出来ないのである。子供の育て方を解説している人達はこの事に言及している事は少ないのではないだろうか。
 私はとある非行に走った少年少女達を指導した事がある。彼等が暴行や薬物の乱用等の非行に走る理由は様々で家庭環境や、本人の性向そのものに問題がある等が挙げられるが、私が彼等を指導していて感じたのは彼等のバランス感覚の無さである。ある少女に対して親身に指導をしていると、その少女は異常に私に懐いてきた。彼女は貞操観念が緩く、男と事ある毎に性的関係を持ち、男に言われるがまま違法な行為に手を染め、お金を稼いでいたのだと言う。彼女の実の父親は彼女が生まれてから間もなく離婚し、彼女は母親に引き取られた。祖父母に預けられるも、厳格な祖父の教育観念にそりが合わず家出を繰り返していた。その少女の母親は仕事にかかりきりで、少女の面倒を見るのを疎かにしていた。彼女は男に諭されたり優しくされるとその男に異常に好意的な感情を抱いてしまう。彼女には父親からもたらされる、彼女の身を案じて指導的な立場に当たったり、親身に彼女を導いてくれる父性というのを欠いていたのだ。
またある少年は窃盗を繰り返していた。私がこの少年と話をしていて気になったのはこの少年が昔の事を語る際に母親がほとんど登場しなかったことである。少年の母親はちょっと特殊で、育児放棄に近い行動を取っていた。父親が母親の代わりに彼の面倒を見たり親身に世話をしていたという。私は彼に「君は窃盗をしなくてよい、良い子なのだからそんな事をして自分を貶めるのは止めなさい」と説教したり、非行行為を繰り返さないよう助言をしたが、前述の少女と違って私の言葉はあまり彼の身体に届いていないようであった。
私は直観的に、彼が求めているのは的確な言葉や指導ではなく彼を包む母性的な優しさであると推測した。叱咤や、反省を促すといった行動ではなく彼には言外で彼を支える愛情が必要なのだ。それは男である父親よりも、我が子を抱いて母乳を上げたり、痛みを伴って子供を産むなど、子を身体に宿し一体となって付き添ってきた母親が適任ではないだろうか。その少年は理屈といった概念ではなく、無償の愛情を受ける機会を今まで喪失していたのだろう、だから母親の気を引くために窃盗を繰り返していたのかもしれない。
 私は子供を持つ親として、また以上の経験から、父親は父性として、母親は母性として子供に対して役割を与えられていると思っている。家族内の幸福の獲得の要素としてこれらの要素を子供達に満たしてあげる事が重要だと私はここで強く述べたい。



 
5 仕事


 今日最も我々が感じている幸や不幸といった概念を既定しているのは仕事ではないだろうか、というのは生きている間で最も時間を奪われるのは仕事であるというごく自然な道理からである。恐らく仕事に対して何らかの抜本的解決策を講じている人は、人生そのものを幸せだと感じているだろう。働くのが楽しくて楽しくてしょうがない、それでいて楽しさに付随してお金という生活を豊かにしてくれる手段も自動的に得ることができる、まさに人生を謳歌しているという人間が吹聴しそうな生き方だろう。逆に自身の仕事に対して不満がある人間は自分の人生を幸せだとは感じにくいだろう、仕事に従事するのを忌避し、出来れば回避したい事象と認識するか、あるいは従事している間、早く時間が流れないかとわざと作業の能率を下げるような事をするかもしれない。恐らくこの人間にとって仕事とは人類に課せられた罪の一つだと認識しているかもしれない。
 私が思うに、生きるために必要な作業である労働が人生の多くの時間を奪うようになったのは、文化が成熟するに従い、それに伴って洗練された倫理観を人類が欲したからだと認識している。穿った見方かもしれないが、大部分の人間は企業から時間を搾取される側である。大部分の人間はどこかの企業から雇用されるという関係により賃金を得ている。労働契約を結んでいる以上は課せられた労務に服し、与えられる報酬の分まで働き企業に拘束される。労働条件や仕事の内容を一方的に突き付けられ、さらに立場により与えられる給与は数倍にも違う様は我々に不公平な感覚を抱かせる。実際雇用する側と雇用される側は公平ではない、給与が違えばその分自由な時間を得る選択肢が増える、それでいて高給を得ている側が比較的賃金の安い仕事をしている人間達の仕事内容を決定するのである。この状態が続けば、裕福な人間は裕福なまま、貧乏な人間は貧乏なままという階層が生まれるであろう。
 食べるために仕事をするはずなのに、何故か階層を助長し雇用者の利益の維持のために労働者の時間が搾取されるという構図が成立している。それでいて不思議な事に、この労働規範に慣れてしまった人間達はこの構造に疑問を持たない。「能力のある人間がそれ相応の報酬を受け取るのは当然である」と、しかし実態は能力の有無よりも、元から持っていた財産の大小により能力が評価される機会が多分に変わる、それでいて富裕層は全体から見てマイノリティに属する事から、富の格差は大多数の人間の正当な報酬を得る機会を奪っている、と言えるのではないかと私は思う。そもそもこの富の格差の肯定は古来の人間達に共通する倫理観ではない、もちろん格差の是正を前提とする社会主義も同様である。
 古来の人間達にとって食べ物を得る事、つまり生命を維持するための作業が労働だった、例えば食料を確保するために狩りに出かけたり、農作業をしたり、その作業の効率化を図る為に道具を改良したり等である。この労働規範では生きるのに必要な食べ物を確保できれば仕事は終わりであった。一日分の食料を得られれば仕事は終わり、三日分の食料を得られれば三日間は働かなくて良いのである。
ところがいつの間にか労働それ自体に価値を置くような倫理観が、資本主義を標榜する国々において普遍的な価値基準と認識されている。この価値基準とは簡単に言うと、つまりお金を稼げば稼ぐほど良いという行動規範である。上述の例で言えば、一日分の食料を得ても、日が暮れるまで時間があるのでそれ以上の食料を得る為に働く、三日分の食料を得ても三日間休む事は無く、通常通りに働く。この労働規範によれば、食料を貯蔵する倉庫内が、食料で溢れれば溢れる程良いのである。現代の経済に当てはめれば、お金が貯まれば貯まる程良いのである。さて、地球上で獲得できる食料は土地に依存し、基本的には有限でありこの食料を増やすにはそれ相応の時間がかかる。この食料を極数人が独占した場合、他の人間達にどのような影響を与えるだろう。他の人間達はひもじい思いをし、食料の提供を望んでその極数人に使役される事を望むだろう。しかし、原始社会においてこの構図は恐らく成り立たない、何故なら食料には腐敗の概念があるため、地球上の全ての食べ物を独占する意味がないのである。それでいて、大量の食料を確保しようが、食べる人間の胃袋は有限であるため、地球上の人間以上の食料を生産する事は何の利益にもならないという考え方になるだろう。しかし現代となると話は変わる。何故なら、現代の経済の血液となっている貨幣には腐敗の概念は無く、それでいてお金を消費するという機会は腹が膨れるよりも有限性に限りがないからである。
 このお金が多ければ多い程良いという価値観は宗教的な教義と言って差し支えないだろう、なぜならこの行動規範は道楽に耽て良い、労働にかまけずに遊びなさいという価値観を否定し、労働に従事する事を称賛しているのである。「収入が増えた、では増えたお金で何をするか、仕事量を減らし余暇を増やすべきか、いやそうではないこの増えたお金でもっとお金を増やすべきなのだ」と、これでは生きるために働くというよりも働くために生きるという、古来の労働に対する考え方が180度変わっている。ここまでの価値観の変遷は宗教の教義じみた強い倫理観が無ければ実現しない。私は文化が成熟し、あらゆるものに価値観を与えていった結果、それが労働にまで及び、人々が国家を形成し維持するにあたって、そのような労働に関する倫理観を用いて人々の価値観の統一を図っているのではと思っている。これはつまり宗教がその信徒の信仰心に統一性を持たせ、信徒を維持するためのドグマと同じ働きをしているのだ。
その意味では格差の是正のために掲げられた社会主義も新しいドグマを信奉する事と同義である。徹底的な格差の是正は個人の権利の行使、主張の抑制を引き起こす、人々が平等になるためにはそんなものは必要ではないからである。必要なのは集団の意識が個人の権利に介入できるような行政機関の設立とその機関に対する熱い支持だろう。これにより個人個人は全体の為に貧乏になり、貧乏になった人間は救済を求めて行政機関を信奉するという共同体が国単位で誕生するのである。これはある宗教の信徒が、密接にその宗教の施設に関わるような生活を送っていて、その信徒が宗教施設を束ねる統率者に厚い信仰心を向ける事と同じではないだろうか。この統率者に対する信仰心は宗教において普遍的な行動様式ではない。一般的に宗教の信者は死後といった人間が不可知な分野に対する恐怖を解消するために宗教を信仰しているはずだが、この場合の信徒は同じ人間であるはずの統率者の命令に従う事が救済行為と同義であると認識している。このような共依存的で人間同士にランクが存在する体制では個人が自己の権利や意見を主張するといった気概は生まれないであろう。
 私はどの政策や体制が正しいのかをここで論ずる事はしない。それらの優劣を語る事は結局のところ宗教間の優劣を語る事と同義であり、無意味である。これらの政策や体制を支えているのは個人個人の嗜好や信条である、その証拠として資本主義が全世界の国々を席巻しているかといえばそうでもないし、資本主義と双子関係にある民主主義を標榜していながら内実独裁に近い体制へと変貌している国もある。大多数の人間達の価値観を統一し、長年をそれを維持し続ける土壌を作りあげるのはちょっとやそっとで出来上がるようなものではない、表面上は新しい体制を声高々に宣言しようが、中身は旧態依然のままという事もあるだろう。ここから解るのは、人々が選択する体制に普遍性は無い、普遍性が無いという事は、体制とは諸問題を解決する最適解のようなものを意図していないという事である。それもそうだ、我々人類には自由になる権利が与えられていると喧伝されるが、一体どこからそのような確証が湧いてくるのか、何の保証もないまま人間自身が人間の権利を確定し、それを自然の道理として認識している、同じように独裁体制内では自分達の国がユートピアであるとし他の体制の文化の侵入を排除するよう働きかける、そこにあるのは合理性ではなく宗教的な信仰心だろう。信仰心による人間が作り上げた物であれば、合理的に瑕疵を説明しようと信徒は目を背け自身の体制を信じ続けるのである。このような柔軟性の無いパラダイムから普遍性のあるものなど生まれはしない。
 倫理観により仕事の形態が変わるのであれば、その仕事に対する評価も個人の倫理観に左右される。何もしないよりは汗水流して時間を忘れる程働いていたいと思う人間はそれほど仕事に対して幸や不幸といった概念を持っていないだろう。このタイプの人間は利益はそれほど重要ではない、会社に時間を拘束されてもそれほど不幸といった感覚は湧かないはずである。しかし収入の増減に一喜一憂する人間にとっては時間をかけて儲からない事をするのは苦痛である。このタイプは仕事に合理性を求め、少ない時間で多くのお金を手に入れる事を望む、労働時間により社員を評価する会社においては前者の人間にとって都合の良い環境であろうが、後者の人間にとって最悪な環境であると認識される。何故なら時間あたりの利益を求めれば求める程、作業量は効率化され、労働に割かれる時間は短縮されるはずだが、会社からは楽をしたがる人間と評価され出世が阻まれるからである。逆に成果主義の会社であれば(最もそれが標準的な資本主義の会社の理念であるが)労働時間が多くそれでいてさほど成果を上げられない前者の人間はリストラの対象になってしまうかもしれない。仕事に時間を多く捧げることにより評価を得ていた人間が、成果の可否による熾烈な競争を生き残るのは至難の業である。というのは言い換えれば会社に在籍していた年数により立場が決定されるのであれば、さほど求められる能力は多くは無い、邪険にされないような円滑な人間関係の構築と、仕事をしているふりをしていれば、ほとんどの場合出世街道から外れる事はないのである。しかしこのような年功序列的な会社の行動様式に染まってしまっていては、弱肉強食の成果主義の会社で生き残る事は難しいだろう。ただし後者の人間にとっては幸せな環境である。合理的に働けば出世の機会が増え、収入が増えるからである。このように個人の趣向により仕事に対する評価は変わる。重要なのは個人の趣向を変えるよりも、その社会の労働に根付いている行動様式を変えるのは、前述した通りかなり長い年数がかかるか、あるいはほとんど不可能な事である。あなたの労働に対する倫理観と既存の社会の労働の行動様式があっていなければ、あなたは仕事に対してネガティブを評価を下す事になるだろう。
 やりたい事を仕事にし、お金を得る事が出来ている人間は恐らく自身の仕事に対して不幸といった感情を持ってはいないだろう。生きる上で仕事に多くの時間を奪われるのだから、その時間でずっと好きな事が出来るのであれば幸せである。偶に好きな事を仕事にするべきではないと述べる人間がいるが、私はこの意見に共感できないし、好きな事を仕事にしている人間からこのような発言を聞いた事がない。恐らく好きな事をノルマのごとく強制されるのが苦痛に感じられ、最終的には嫌いな事へと変遷する可能性があるから、このような事を言うと思うのだが、私が思うに好きでもない事を仕事にしている人間は自己の生産性を落としている。
 子供達を見ていればわかるが、彼等は命令されるまでも無く好きな事に没頭している。ある者は何かを集めたり、ある者は没頭している物に対して知識を求めている。彼等を駆り出たせているのは以前の章で述べたように熱意であって、収入や儲けといった経済的な事象ではない。経済は需要と供給といった要素により成立し、人為的にそれら全てをコントロールするのは困難である、つまり商品にいくら高い値段をつけようが、消費者がいなければお金は得られないという法則が厳然としてある。経済観念に依拠している経営者は消費者に合わせて商品を生産する工程を繰り返す、と同時に雇用の関係にある従業員も仕事内容と与えられる賃金を比較し、愚痴をこぼしたり働く意欲を増減させ生産性を既定するのだ。しかし熱意にはこのような外部要因は存在しない。人為的に自身の熱意を向上させたり、継続したりもできる。底抜けの好奇心により子供達は今日も儲けとは関係のない作業を繰り返している。
 このような熱意を持って仕事に励むことが出来れば生産性が向上するのは当然だろう。上司の指示に依存せず自ずから効率化を図るように行動するか、持続的に働く意欲が湧いてくるはずである。ただしこの好きな事は当人にとって娯楽的な物ではなく、探究心をそそる物でなくてはならない。気分を上げるために音楽を聴いていた人間に「そうか音楽が好きなのか、では売れる音楽と売れない音楽の違いを科学的に説明できるよう調べてくれ」と依頼しても怪訝な顔をするに違いない。というのは考えもせずに好きな事を続ける事は可能だからである。これらは探究心よりも消費的な行動であって、心の底から湧いてくる知りたいという欲求とは別物である。娯楽的に接している事象に対して、自分が常日頃使用している範囲外での事(この場合は調べる事)を仕事として課せられても、乗り気になる事は無いだろう。この人物にとって好きな事を仕事にするべきではないかもしれない、余暇として楽しんでいた物が仕事として想起され、苦痛に変わる可能性があるからである。しかし音楽に対して探究心を持っている人達にとって、このての依頼はそこまで忌避するものではない。分析的に音楽を聴いている事を習慣として続けている人間にとって、売れる音楽と売れない音楽の違いを科学的に説明する事は面白いテーマと認識するに違いない。
 もう一つ生産性について言及するならば、殆どの人間は現状に合わせてゴール設定を決めている。例えば好きな事を仕事にするべきではないという発言には、好きな事ばかりしていては世の中は回らないだとか、人々がやりたくない事を誰かがする必要があるといった意味も含まれているだろう。ここで述べられているのはある種の現実である。殆どの人間が好きな事を仕事に出来ないし、仮に出来たとしても低い賃金から別の職種へと目移りする事もあるだろう。自分がやりたい事を実現するにはリスクが伴う。そのリスクと現状を天秤に掛け、上記の発言を理由に夢を追いかける事を諦め、自身の行動に正当性を持たせるため他人に対して同じ旨の発言を喧伝し始めるのである。さて殆どの人間が夢ではなく現状を選択したとすると、彼等のゴールは今在籍している会社の重役ではないだろうか。これが果たして己の生産性を加味した結果の最善の選択であるかは疑問である。何故なら現状維持とは詰まるところ退化に等しいからだ。現状維持を続ければ続ける程あなたが本来受け取るはずの報酬は著しく貶められる、もちろん中にはこのような現実に則した行動により本来の能力からは相応しくない報酬を受け取る人間がいるかもしれないが、換言すればそれは全体の生産性を落としている。誰かが能力以上の所得を不相応に受けているという事はその分誰かが損をしている。もし社会全体が生産性を上げたければ自分がしたい事をするべきであると言うべきであろう、あるいはこのような事が実現できない社会は変化に乏しく成長性の無さに喘いでいる社会に違いない。
 仕事に対する幸せの概念は個人と全体の労働に対する倫理観が決めている。全体を変えるよりも自分自身の価値観を変える方が楽である。逆に全体が変われば個人の固定化されていた価値観というのを認識する事ができるかもしれない。後者の場合は今まで仕事に対して不幸だと認識していた人間が己の認識を変えるきっかけにもなるだろう。全ての人間を救う完璧な体制が無い事から、臨機応変に労働に対する倫理観を変えた方が非常に楽な生き方ができるのは間違いない。そのためにも自分の欲求や能力、社会全体の労働規範を言語化し、俯瞰するのは重要な事に思われる。



 
6 努力と自己顕示欲


 昨今は人々の自己顕示欲の向上を謳うような情報が目に付く。外見では苦しんでいるように見えないが、内面では苦痛を感じ、他人に何も言えずに自殺する現代社会の若者や、意見を求められても答える事が出来ない、自分の頭で考える事を放棄させられる習慣から脱するためにこのような事を取り上げているのかもしれない。
よくよく考えると個人がここまで尊重され始めたのは近代になってからではないだろうか。血の繋がりの無い他人同士が仲間意識を持ち、国という共同体にまで発展するには個人の権利や所有権などは共同体の解体要因として排除されるものではなかったか。例えば宗教共同体であるカトリック内では正統から外れた人間達を異端審問で処罰していた。あるいは信賞必罰を是とした法家の思想により中国を統一した秦の始皇帝は法の遵守を徹底し、法を犯した者を容赦なく処罰していた。これらは国という大勢の人間達から構成される共同体を維持するにあたって有効な統制手段だろう。統治者の規範意識とは別の物が誕生し、それが共同体内に蔓延ればいずれ反乱の起因となる。たった一人の異端的な思想でも大勢の人間が感化されれば今まで築き上げてきた共同体が一瞬にして瓦解することもあるのだ。それを防止するために厳格な法や処罰を共同体内に布くのであるが、そのような中世に蔓延っていた封建的で強大な権力を行使していた思想の時代から後に個人主義を源泉とする民主主義が台頭するのは不思議な事だ。別の視点ではそのような時代だったからこそカウンターとして個人の権利を尊重する思想が生まれたと言えるのかもしれないが。
 個人主義と全体主義は相反するため、全体の利益を重要視する全体主義の思想は個人主義者達から反発されることがある。しかし個人主義は個人の利益を最も重んじる観念というわけではない。例えば仮に全体に迎合し、個人の権利を政府に譲渡した方が自己に利益がもたらされるとした場合、利益を最優先する場合はその条件をのんで権利を譲渡した方が良いだろう。しかし個人主義者であれば断固として自己の権利を守らなければならない。その行動理念には利益になるかどうかという尺度ではなく、自分は生まれた時点で何らかの権利を既に有しているという認識がある、この認識により権力機構が個人の権利へ介入した時は反発し徒党を組んでデモへと発展する。
また個人主義は自己の幸福の獲得にのみ主眼を置いていて、他人の幸福の獲得は視野にいれない冷酷な主義であるというわけではない。例えば政府に盾突く存在を事前に政府に知らせれば何等かの恩恵を受けられるとしよう、利益を重要視するのであれば政府に抵抗しようとする仲間の情報を売れば良いのである。売られた人間の処遇など気にしなくてよい、何故なら利益主義者同士であれば同じ行動を相手も取る可能性があるからである。儲けられる内に仲間の情報は売った方が良いと利益主義者は合理的に考えるだろう。しかし個人主義者同士であれば、仲間が権力を振りかざされ不当な扱いを受けている事がわかれば、恐らく助け合うような行動を取るだろう。たった一人で政府に反発するよりも、大勢の人間の力を借りて抵抗した方が政府に対する強い抑止力になるからである。相手の権利を守ってあげる事は大局的には自己の権利を守る事に繋がっていると認識されているのだ。ここから個人主義者は個人の利益にのみ主眼を置いている主義という事では無いことがわかる。
 この利益や全体の帰属意識よりも、自己の正当性を主張し、たとえ組織的な行動により不利益を被ろうが果敢に抵抗する様式は、個人的には自己顕示の発露と似ていると感じる。もう少し詳しく書くと、当たり前ではあるが権利とは義務といった行動と引き換えに手に入れる物ではなく、既にその人物に与えられているという認識が先にある。そこらにいる乞食だろうが、税金を多く収めている富裕層だろうが、与えられている権利は同等のものである。全ての人間に平等に与えれていて、その自己の権利を行使し、自己の権利が犯された場合は主張するという様と、自分自身の存在や生まれながらに持った能力といったものを周りに喧伝し、自分を貶める存在に与せず、すべての人間が自分の存在を主張する場を当然とする考え方はこの権利の概念と似ていないだろうか。私が思うに自己肯定感の向上や自己顕示欲を強く持とうというスローガンが掲げられる背景には、このような近代の権利の概念の伝播が土壌にあるのではと考えている、そう考えると、この自己顕示欲は個人主義に該当するのではないか。
 以前の章では好きでもない仕事に従事している人間は自己の生産性を落としていると書いた。ここでは自己顕示欲が生産性や幸福の獲得にどう影響するのか書いてみたい。前述した仮説から、自己顕示欲を権利の概念と似たものとして捉えて考えてみよう。自己顕示欲の強い人間は自分の存在が表に出ないような行動は好きではないはずである。例えば自分の苦手分野を仕事として選ぶのはあまり良い選択ではない。作業を継続する事もできず自分が活躍できる機会が乏しくなれば自己の成果を周囲の人間に見せることができなくなる。そこで彼等は自分の得意な分野の仕事を選択する可能性が高いだろう。お金はそこまで重要ではないかもしれない、大金を稼げるものには地味なものもあれば、大衆からは忌避されるものもあるからである。収入面においては、年功序列的な自己の能力とは関係無く所得が確定されるシステムとは恐らく相性が悪い。所得が自分の能力とは見合わないと判断すれば上司に昇給を要求するだろう、不当な評価を受けていると判断し上役に申し出るのは自己の権利を守るという行動に似ているかもしれない。昇給が望めず会社に不満があるなら、自分の能力が正当に評価される会社へと転職を希望するだろう、この行動も会社側の理念を優先せずに自己の心情を優先するという意味で個人主義的であると言えるかもしれない。
上記から自己顕示欲の強さは自己の幸福の獲得に繋がっていると言えるのではないだろうか。自分の欲求を抑えるよりもやりたい事を成就できるだろうし、果敢にキャリアアップを望むことで、何らかの成功を収める機会が増える事だろう。個人主義の要素もある事から、彼等は成功体験を周りに語り、自分の行動様式を参考にするよう呼び掛け、お互いがお互いの存在を称賛するような環境の構築に努めるようになるかもしれない。しかしながら、私はこの個人主義的な行動様式が必ずしも自己の生産性を上げるわけではなく、万人の幸福の獲得に貢献するようなものではないと思っている。それはまるで以前の章で語ったように、何の精査もせずにある労働規範を賛美し、別の観念を生じさせないような有る種の信仰のような感覚をにわかに感じる。この自己顕示欲の強さが別のものへと派生し悪い影響を与えているのではないか、以下に考察して述べてみよう。
 月並みな意見だが、個人主義の横行はやはり全体の不利益を生むように思う。個人主義は必ずしも個人の利益を追求しているわけではないと書いたが、個人主義の横行により富が特定の個人に偏在するのは確かである。大金を稼ぐにはお金がいる、という事は換言すればお金をたくさん持っている方が大金を得る機会に恵まれているのである。特定の人間に富が偏在するという事は、消費者のお金が無限ではない以上、誰かがお金を得る機会をその人間が独占しているという事であるこれでは貧富の差が生じる。格差は犯罪の発生率の上昇や失業率にも影響し、国民の健康状態にも影響が出る事から、政府は躍起になって富の偏在を無くそうとあらゆる手段で富裕層から低所得の人間にお金が行きわたるように画策するが、この行為は個人主義者からすればお金の占有者という自己の権利を蔑ろにされていると憤るだろう。労働の対価として報酬を受け取っているのだから、能力のある自分が高収入なのは当然である、というように。全員が個人主義を体現すれば誰かの権利が犯されれば強力しあって抵抗するという考えが生じるかもしれないが、誰かの為に自分の権利や主張を放棄するという行動は取らない。よって救われていない人間はどうすれば良いか、ほっとけばよいのである、とまるで資本主義の権化のような結論を最終的には個人主義者達は下してしまうのである。
また逆説的だが、個人が自由を主張すればするほど、全体として不自由になるという事があると思う。あなたが何か表現者として表現を形にしたとしよう、例えば絵や動画などである。誰かがそれに対して不快やある種の差別を誘発するとあなたの表現物に対して修正を求めるよう訴えたとしよう、あなたは自己の表現の自由を行使するためにその人物と争うが、最終的にはその訴えを認め修正したとする。恐らく後続の表現者達にもその余波が伝わり、あなたが表現に用いていたテーマを用いる際には、その事例を考慮して自分が本来描いている事とは別の表現をするようになるだろう。訴えた人物は自分の主張が認められ、不快な感覚を根絶できたと喜ぶかもしれない。しかしこの訴えを契機に後に自分が好んでいる作品において、自分の訴えと同類のものが発生しその作品が排斥される事が起こりうるかもしれないし、自分の言動にも制限がかかるように巡り巡ってくるかもしれないのである。自由を求めて主張し続けていたが、気づけば自分が得られる自由よりも、他者の自由の鎖にがんじがらめにされていたという事にもなりうる。自分達が閲覧する作品全てに作者の本来の意向とは別の意図的な何かが含まれていたり、本来なら思っていないがそのように振る舞わなければならないなど、当人の自由な思考にまで大多数の人間達が思い描く自由に束縛されることになり、さながらユートピアとは逆のディストピアのような社会になるかもしれないのである。
民主主義や自己の権利の尊重を謳う人間達は、それが人類が長い年月をかけて勝ち取ったかけがえのない思想であり、唯一個人が自由を体現できる主義であると認識しているかもしれない。が、彼等は個人個人がある程度我慢すれば実際は全体として緩やかに自由を体現できる事を知らない。絶対に他者に対して権利を放棄してはならないという強迫的な思考と強い自己顕示欲が、常に弱肉強食の中で競争させられ、己の弱さを見せられずに本音も言えない、格差を受け入れなければならないという生きづらい社会にしていることに気づいていない。
例えば上述した例で言えば、表現者とクレームをつけた人間、争点をどちらが正しいかという風に白黒つけず、どちらも極端は良くないとあえて結論を放棄したらどうだろう。このような行動様式を実践するには、自分達は欲を出してはいけない、強く主張してはいけないという自己顕示欲の否定が不可欠である。つまり、個人が権利を盾に強く自分の主張を前面に出すのは良くない事であるという認識があれば、上述の例は「問題を提起した人間、問題の原因となった人間、どちらともに悪い」という風に解決に至るのである。こうなると最終的な結論は個人個人が行動に対して反省するという旨になり、それ以上深くは言及されない。表現者は反省の落としどころとして表現を控えるよう個人で処理するようになる、個人で裁定する分どこまで表現を抑えるかは自由である。あとは反省した姿を見せれば許される。クレームをつけた人間は争論の結果に不満足に感じるかもしれない、でも大局的には自分が好きな表現に対してもある程度の自由が守られているという事にもなるし、自分の言動にもある程度自由が担保されている事にもなる。何故なら問題提起をする人間にも悪い面があると認識されるからである。このように問題の責任が特定されないという極めて悪質な負の側面を残しつつも、この行動様式では全体として緩やかに自由を体現できるのである。
 他に良くない影響として過度な自己評価があるのではないか。個人個人が目標を持って自分の理念を貫き人前でも堂々と自分の考察を主張する、このような行動を成り立たせているのは他人からの称賛を求めているという事と、自分は正しいという自己評価の高さだろう。それらは自己評価が低く、回避的な行動を取る人間にとっては成功を掴むための必要な要素かもしれない。しかし過度な自己評価は脆い精神構造と機微な人間関係の構築の失敗を招くのではと個人的には思う。誰しもが幼い時に理想や夢というものを持っていただろう、理想は高ければ高い程良い、非現実的な理想であれば現状に満足せず常に能力が求められるため、現状に満足している人間よりも最高のパフォーマンスを発揮する人間に最終的にはなっていると、自己啓発目的の本やセミナーにおいては高い理想を持とうと主張されているかもしれない。しかし理想の実現にはそれ相応の実力が求められる、過度の自己の能力の持ち上げと現実とのギャップに酷く精神が擦り減らされることもある、というのはこの手の人間は心の支えとなる仲間というのを構築するのが下手であるからだ。周りは称賛する人間ばかりで、彼の過剰な行動を諫める本当に優しい人間を彼は自分の能力に嫉妬していると蔑んでしまう。そして結果的には孤立し失敗の連続が一度起きれば、彼は打ちひしがれ精神を病むのである。自己顕示欲の強さはこのような事を誘発するのではと私は懸念している。
 理想の実現の為にはそれ相応の実力と努力がいる。一概には言えないが、声高に自己評価を高めようと主張している人は、それに付随して努力も必要であるという事をあまり主張していないのではないか。私が思うに自分の能力を人前で前面に出している人は、努力の必要性を重要視していない。どれだけ自分が価値のある人間か訴えるのは簡単だが、それに見合った能力が無ければ無能である。自己評価が高い分、彼等は他者の客観的な評価を受け入れられず、自分を適切に評価してくれる場所が他にあるはずだと考えがちである。そして良好な人間関係を構築できず孤立し、自分がこうなったのは自分を認めない社会のせいだと最終的には国のせいにし反逆の徒となる。このような人間達に欠けているのは誇大な自己評価を抑止する自省的な感情であるのは言うまでもない。
 私は努力の根源とは自己顕示欲とは反対の自省的な感情だと思っている、あるいは低い自己肯定感とも言えるかもしれない。恐らく様々な観点から自分は劣っているという認識はネガティブな結果を生むと言われているだろうと推測する。それは事実で自己肯定感の低さは消極的な行動を招き、本来なら得られるはずの成功を手放してしまうこともある、しかしそれと同様に自己肯定感が高すぎると人間関係や様々な行動に波及し上手く世渡りできず、成功を掴めない場合もある。過度な自己否定は良くないが、過剰な自己評価を抑止するためには、少しの自制心が必要である。つまり自分は劣っているという感情は少なからず生きる上で必要なのである。
 恥ずかしい、自分には向いていない、自分は優れていない、自分はこれといった長所は無い、といった感情はネガティブな側面として語られてきたが、これらは自己分析する上で客観性をもたらす要素として重要である。極端な言い方かもしれないが、地道に事を続ける、称賛を目当てにせず、一つの分野に集中するにはこの抑止的な感情が必要ではないだろうか。自己の権利に固執せずに消極的で大局に身を任せる様は権力機構からすれば御しやすい存在だろう、そういう意味ではこの劣等感の強い人間達は全体主義的な側面があると言えるかもしれない。彼等は権利を主張する人間を忌避し、自分があえて不利益を被る様な行動を賛美する、何故なら自己犠牲が彼等にとって美徳なのだから。このような価値観からは個人主義の社会とは違う社会を垣間見る事が出来る。例えば格差はこの全体主義の社会においては起こりにくい事象だ、通常ならば新入社員と社長では数百倍もの賃金格差があるが、この社会においては自省的な感情から差を少なくするような心理が働く。また相手の自由を犯すことも躊躇うだろう、相手は不快な思いをするかもしれない、自分はそのような立場には無いといったネガティブな感情により、上述した通り全体として緩やかに自由が心理的に働くのである。このように自己顕示欲の弱さは全体から見ると良い効果をもたらすのではないだろうか。
 ざっと、昨今人生を上手く生きていくために必要であるとよく主張される自己顕示欲と、その阻害要因として忌避されがちな努力の関係について書いてみた。これらの関係性から導かれるのは双方ともにメリット、デメリットがあり、どちらか一方に偏重するのは実はあまり良い結果を生み出さないという事である。本人の性質にもよるが、もし幸福の獲得を実現したいならば、どちらも重要視するべきだと個人的には思う。



 
7 幸福なひと


 歴史は勝者によって作られると言われている。後世に語り継がれるであろう諸々の事物や事件は当時の勝者による主観により書物として残される、という事は我々は過去にタイムスリップしない限り、また過去を知る術がその書物しかない場合、勝者の主観でしか過去を知る事ができない。その他の敗者の歴史観や正当性、客観的な事情を把握する事が困難になるのだ。また勝者の歴史観を何度も刷り込まれていては、仮に本当の歴史に触れる機会が訪れたとしても、それを偽の情報として頑なに信じるに至らなくなるかもしれない。歴史というのはたぶんにアイデンティティと関わる要素だからである。幸福についても同じ事が言えるのではないだろうか。
 私達の幸せの基準は他者により既定されている。そのほとんどが基本的には親である。親の価値観や倫理観が子供に刷り込まれ、彼等の人生設計に影響を及ぼしている。その影響を客観視する事も俯瞰する事も出来ず、彼等はそれは自分自身が選んだ幸福の獲得への試練なのだと、親の幸福を愚直に実践する。そして残念な事に、このように親の幸せと自分の幸せを切り離せなかった子供達は、自分が親になった時は子供に対して同じような教育を実践してしまう、何故なら彼らは本能的に不条理にその幸せを強制され、満たされていないと体感しているからである。その境遇から救われるには弱い立場にある我が子に自分がされた事と同じ事をすれば良い、そうすれば自分は不条理な感覚から救われる。これは過去に親から虐待を受けていた子供達も同様である。本来なら虐待行為は子供に非常に辛い思いをさせると理解しているはずなのに、頭で抑止するよりも先に自然に子供に対して手を出してしまう、長年刷り込まれた行動様式を払拭するのはそう簡単にはできない。こうして悲劇的な不幸の連鎖が子々孫々と続いていくのである。
 反抗期を通して親の価値観と離別できた人間はある程度自分の幸せを把握できているかもしれない。しかしそこを抜け出せたとしても、親以外にもこの社会において己の幸せを既定する要素がある。それは現状維持から起因する大衆の願望である。人間は人生において何らかの選択を突き付けられた場合、手に入れる事が出来る報酬と、手入れられなかった場合のリスクを合理的に考察してしまう。ほとんどの人間は自分の夢をかなえる事を選択せず、本来なりたかった職種とは別の職種を選んで人生を送る。その選択に至ったのはもし出来なかったらという恐怖心と、その夢をかなえるために捧げなければいけない時間と労力を計算する現実的な視点だろう、未来の自分の姿を想像する際に、成功する自分と失敗する自分の姿を並べて俯瞰し、その選択をしなかった自分の姿に心が移り、夢を追う事を諦める。その姿が果たして成功や失敗した姿よりマシであるという確証は無いにもかかわらず。そして現状維持を選択した人間は往々にして夢を追いかける人間を萎縮するような言動をしてしまう。それはその人の為を思ってと主張しているようで、客観的に見れば自身の選択に正当性を与える為という、自分の為の行動のようである。このような慣習は成長が止まった社会に跋扈し、自分の幸せを掴もうと邁進しているあなたの原動力を著しく阻害するような人々の言動の起因となっているのである。
 大多数の人間のゴール設定は現状維持により決定される。その行動指針は個人主義というよりも全体主義的ではある。既存の安定した職種を選択し、その業界の大企業に入社し、会社内の社則に適応するよう努め、その会社内における自分の立場のランクアップを目標に会社に奉公する。そこに個人の意思決定や大体数の人間と同一視される事に対する反発心は無く、大衆の価値観に迎合し自身の心の拠り所とする全体主義が行動様式としてある。知らず知らずのうちに会社にとって都合の良い労働者となり、外部で活躍していたら得られたであろう成果を手放し、代わりにその会社内における最高の待遇を自己の成果の上限として設定し邁進するのである。
 リスクを回避し現状維持に重点を置いて、現状における最高の待遇を得られるような行動を取っている人間に問いたいのは、果たして自分が人生の終焉を向かえるにあたり満足して死ねるのか、という事である。死は平等に全ての人間に訪れる、死んだ後は誰にも解らないが事実としてもうこの宇宙で生きる事は無く、生命としての存在が消え、二度と同じような行動を取る事はできない。その厳然として待ち構えている事実の前に後悔無く生きる事は人としての幸福を獲得する事と同義ではないだろうか。リスクを畏れて抱え込んでいる気概を放棄し何事にも無難な選択をして長生きをした人間は死の間際に至った時悔いの無い人生だったと回顧し満足して逝くだろうか。実際は大往生した人間達の回顧録を読む限りそうではないみたいである。彼等長寿者に共通しているのはストレスに対して正直に反発しているという事だ。健康に悪いと言われている食べ物を長年にわたり好んだり、老齢になっても腰を据えることなく果敢にチャレンジする精神を持っている。寿命は遺伝といった当人の資質に大いに依存することから一概にストレスに抵抗してきた生き方が長寿を成し遂げる秘訣だとは言えないであろう、しかし彼等が人生を回顧し、人生を総括する際に後悔の念を含んだ言葉は恐らく口から出る機会は少ないのではないか。何故なら彼等は往々にして若い人間にアドバイスする際には自己抑制的な生き方を勧める事は無いからである。
 つらつらと全体主義的な行動様式を批判するような事を書いて来たが、私は特に個人主義が幸福を獲得する上で最善の思想であると主張したいわけではない。自分の幸せにのみ価値を置く、相手の幸せとは関係なしに自分の行動原理を最優先事項だと認識している人間は詰まる所ただのエゴイストである。幸せの絶頂にいて大衆に好かれる人間と、自分は幸せであると誇示しながら周囲の人間に嫌われる人間の違いは、自分の幸せの中に他人が含まれているかどうかではないだろうか。そして恐らく後者の人間は自分は満たされていると自己認識していながらもその実、虚無的な感情に時折襲われているのではと私は推測する。我々が子や孫を持った時の感慨深い感情は、人により理由はさまざまだろうが、己が生きた証が子や孫に継承されるからではないだろうか。自分の身体的特徴が受け継がれるという原始的な要素以外にも、己が経験してきた感情や性格、習性、知恵など、たとえ直接教えていなかったとしても、それは子供と長年触れ合って生きていれば伝わり自然と継承されていくものである。自分がこの世から消えてなくなっても、自分が培ってきた物が代々継承されていくと考えれば、たとえ本の少しでも誰かの糧となり支えとなるのであれば、それは幸せと認識されるのではないだろうか。というのは私達は他人に感謝される事を自身の幸福と認識できるからである。
 人は自分自身の為だけに生きる程強くはない。他人がどうなろうと関係ない、自分が生きている間、自分が幸せであればいいという考え方は当人に不幸な感情を喚起させる。それは虚しいという感情である。お金を自分の為にいくら貯めようともあの世に持っていけるわけではない、資産をいくら増やそうがお金で友人のフリをしてくれる人間を増やそうが、死ぬのは基本的に一人でありその後には何も残らない。若いうちはその現実に真摯に向き合わず、まだまだ先の事であるとその事について考えるのを放棄し、自分の欲求を満たすためだけの行動に明け暮れるのは可能かもしれない。しかし死の瞬間が一度その人間を襲った時、その人間は初めて生と死は乖離できない、表裏一体のものであると認識し、改めて自分という生命現象から外れた概念について問い始めるのである。その中には恐らく他人に関する事が含まれているだろう。死の恐怖に対しては宗教が解決してくれるかもしれないが、生死を超えた沢山の繋がりにより構成されるこの人間宇宙から自分の存在のみを抽出し、他者とは無関係に己の存在理由を追求できるほどには人間は強くは作られてはいないのである。
 全体主義はこの人間の特性をよく理解していた。私達は他人に対して共感する能力を持っている。誰かが悲しみを感じればその感情を共有し、自分も悲しむ。また誰かが楽しんでいれば自分の事のように楽しめる。共感能力があればある感情により意識を統一し集団となって行動できる。この様態は個人の行動よりもはるかに強力な効果を体現できる。誰しも困窮を体験するのは嫌である。自分が困窮するはずは無いと思っていても、将来はもしかしたらそのような状態になるかもしれない。そのため、困窮を全体から根絶する為にはどうすればよいかという解決策に、各々が収入の数パーセントを困窮者に寄付すればよいという発想が生まれるのである。個人が自分の力のみで困窮を脱するよりも、この方法は容易に困窮者を救済できるし、それでいて自分が将来困窮した場合の心配を解消することにもなる。これは個人の救済を超えた他者に対する救済行為に他ならないし、この救済には自分の救済も含まれているのだ。
 傍から見ると全体主義が大勢の人間の幸せを体現できる最高の手段のように感じるが、それは騙りである。上述したように全体主義は自己抑制的な行動を強制する、さらにこの主義が真の幸福の獲得と隔絶しているのはある集団においてのみ救済されるという選民的、二重規範的な要素を含んでいるからである。価値観が一致している人間は仲間である、しかしそれ以外の人間は仲間ではないし救済を受けられない、もっと言えば同じ人間として認識されない事もある。これは自分さえ良ければよい、他者の不幸は関係ないといった個人主義の排他性を拡張したものにすぎないのではないか。結局の所全体主義は個人主義と同様に、自分達の幸せの中には対象外の人間の幸せは含まれていないのである。
 ここで幸福な人について私なりに定義してみたい。幸福な人とはすなわち他者の為に生きる人間である。他者の幸せの為に生きる人間である。その幸せにはもちろん己の幸せが含まれている、己が生きている間の活動に留まらず一人以上の人間に影響を与え死んでなおも感謝され続ける人間、自身を覆う因習を払いのけ、信念を持って他者の幸せを焦点にやりたい事をやり遂げる、救われる対象者に区別や差別などはない。そして救われた人々はその人間に感化され、同じような行動を取り、より多くの人間が救われるようになる。このような大局観を持ち自分の人生を捧げ他者の為に貢献する人を幸福な人というのではないだろうか。



 
第二部 不幸の探究
 
1 人が不幸を感じる時


 私はペットと戯れていたり、畜産として育てられる動物達を間近に見ていたりして、ふとある事を思うのだが、この動物達に不幸といった感情はあるのだろうか。ある人は動物達に感情は無い、だから人間が持つ感情の概念を動物達に当てはめるのはおかしいと指摘する。ペットを飼っている人や動物達に直に触れている人ならわかると思うが、この指摘は間違いである。動物達は人間同様、明らかに感情を有している。
 私がペットを残して家を出て、暫く経ってから家に戻ると、部屋が荒らされている事があった。荒らされた形跡からすぐさまこれは私のペットの仕業だと判断し、破損した家具等を持ってペットに詰め寄り叱責すると、非常にばつの悪い顔をしていた。私から顔をそむけ、行為を認めつつも自分は悪くないといった、幼少期の人間のような仕草を私に向けてしていた。恐らくペット達のこの行動を飼い主達は経験した事があると思われる。彼等の感情表現は非常に豊かで、言葉は話せないが、全身を持って表現し、人間の感情を汲み取れる程の認識能力を持っている。
 さて、そのように人間同様の感情を持っている動物達における不幸とは何だろう。私は畜産として育てられる動物達を見ていて思うのだが、想像の域を出ないが、恐らく彼等は自分が最終的には食料として屠殺されるのを理解していると思う。人間と長く接していたペット達が飼い主の感情を認識し、家から離れる事ができず人間と一緒に住む事、餌は与えられるという環境から、自分は飼い主の勝手か、何らかの都合により飼われていると認識しうるのであれば、畜産として飼育されている動物達も、畜産農家の機微や挙動により、自分は農家達の収益の為にぶくぶくと太らされ、生んだ子供は隔離され、寿命を全うできず最終的には屠殺されるのを認識しているのではないだろうか。もしそうであれば、彼等は人間の都合で生かされ、人間の都合で殺される自分の人生を俯瞰し、自分は不幸だという感情が湧くだろうか。
この問いは前提が間違っていて、人間の『一生』という概念を動物達に当てはめて考察している以上、人間の独断的な結論しか導くことが出来ないと指摘されるかもしれない。動物達が人間同様の個人的な人生観を持っているという確証は何もないからである。
個人的に一つ言えるのは、もし家畜達が言葉を話し、自己の感情を直接人間達に伝える事ができるようになれば、私は彼等を食料として消費するという行為に非常に罪悪感を感じるようになるだろう。自分の腹を満たすためにある生き物の命を奪ってしまった、その生き物は屠殺される際に恐怖や不幸といった感情を抱いていたのだと、食べ物となったそれを口の中に入れる際に頭で自動的に補完し自分の事のように感じるかもしれない。そういう意味では人間固有のコミュニケーションが可能であるという事は、それ自体が同じ種であると認識する最低限の手段かもしれない。機械仕掛けであろうが、異星人であろうが、言葉を交え感情を共有する事が可能であれば、人間はどうしても相手の自我を想定し愛着が湧いてしまうものなのである。
私が思うに、このコミュニケーションを可能とする知性や自我といった概念が幸福や不幸といった感情を発生させる要因ではないだろうか。というのは内省的な自分、つまり考えている、他者と自分は違うといった状態が比較や自己の行動の客観視をもたらし、最終的には自分は幸福か不幸かを判定するようになるからである。動物達が言語のようなコミュニケーションを取らない以上、私は動物達には感情はあるが、内省するという行動を取る事はできないと推測する。とすれば、恐らく彼等は自分の人生に対して幸福や不幸といった感情が湧くことはないであろう。
彼等には自身の行動を顧みたり、自分自身に問いかける等の言葉を持っていないようである。このような内省的な行為の有無が他者とパターン化された動作によるコミュニケーションを取る契機となるかどうかの違いではないだろうか。
 仮に私が畜産動物として生まれたとして、いつか屠殺されると分かれば耐え難い絶望に襲われるだろう。まるで既に死刑を宣告された死刑囚のようである。自由も無く人間の腹を満たすそのためだけに自分の一生が簡単に消費される、このような非情な行為をする種が同じ惑星に跋扈している事実はあまりに不公平で残酷である、と私はあれこれ想像した後で人間として生を受けた事に安堵しつつ、自分が捕食される側の立場にいつかなった時の事を想像してみて恐怖したりするのだが、当の動物達がもし喋る事ができるのであれば、大きなお世話だと大声で言うであろう。これは私の想像だが、彼等にとっては人間の世界が絶望の世界そのものであると認識するのではないだろうか。
動物達が以前の記憶を持ったまま人間へと生まれ変わった時、彼等は初めて自我というものに対面することになるだろう。自分の為にある特定の言葉を与えられるという名前という概念に触れた時、それは動物達には無い習慣であり、あるいはペットだった時にはあまり意識していない要素だろうが、それが他者を区別し自分のみを指す言葉であると理解し、自我というのを強く意識するようになる。それでいて宗教や他人の葬式に参列したり、親戚が死ぬのを目の当たりにすると、寿命や死というのを身近に感じ始める。動物達は死体を埋めたり弔うという不気味な行為はしない、それはもはや物体であるという事を理解しているからである。しかし人間の場合は葬式や宗教間に見られる永久不滅の魂を願ったりなど、動物達とは異なる死生観を持っている、そのような習慣に長く触れた時、彼等は死ぬ、消滅するという事を強く意識し始め、将来訪れる死に対して恐怖を覚えるようになるだろう。
自我の確立や死への恐怖の次は、他者との比較である。例えば単純な生存本能としての比較である。自分の利益は他者によって搾取されている、これを防がなければいけない、あるいは自分も同様に他者から搾取し生き延びるべきだと、富や利益を他者と比較し、自分の生存に強く執着や拘りが生じ始める。あるいは自分と同じような自我を持っている存在が数多いると認識し、そのような環境の中でコミュニケーションを取り続けると社会性というのを意識するようになる。自分の地位や名声、体裁を気にし、死ぬまでこのようなものに煩わされながら生きていくのだ。
動物達に見られないこのような価値観に当の動物達が体感した時、それは絶望という言葉以外に形容しようがない感情が生じるのではないだろうか。彼等は原始的な競争の中で生きている、それは単純で残酷な世界かもしれないが、少なくとも人間のような自死の概念は無いだろうし、同じ種であるにもかかわらず、思想や信仰の違いにより殺しあったりはしない。親子間で殺し合うことが起こりうるなど、彼等にとっては理解不能な事象ではないだろうか。生物が遺伝子を子供に残し伝えるという本能的な行動からすれば、それは非合理的である。そのような事が起こりうる世界に人間として生を受けた場合の事を想像した時、私が思ったような事と同様な感想を抱くだろう、「人間としてこの世に生まれなくてよかった」と。それは私達からすれば「畜生の癖に何を偉そうに」と思うのだが、結局の所ある特定の種の価値観を用いて考察している以上、一方的な結果しか導けないからこのような考察は無意味である。それはまるで宗教間の教義を比較してどっちが救済行為として優れているか討論する事と同じである。
 とは言え、このような思考実験は幸福や不幸は主観により既定されるという事を理解する上では有意義である。例えば宗教間の教義の比較は無意味だと上記で説いたが、宗教間の救済の内容は各々違っていて、実はある宗教においては救済から外れたと思われる結果が、ある宗教では救済の結果であると認識されている。仏教がまさにそうである。キリスト教やイスラム教といったアブラハムの宗教間では、救済とはすなわち魂の永続を意味する。それらの宗教の教義の実践においては異なる面はあるが、最終的には信者はその救済を求めて宗教を信奉する。ところが、仏教においては魂の永続、つまり輪廻といった前世、現世、来世からの解脱を目的とする。種々の世界を生まれ変わり、死に変わりといった無限に続く流れから脱する事を救済と説いているのである。この違いはまるで上述のような異なる種同士が相手の世界の有り様を知り、「なんて残酷な世界だろう」と驚嘆するのと同じ事だろう、自分達が苦しみだと定義していたものが、他宗教においては魂の救済と認識されているからである。それでいて、イスラム教、キリスト教と、大勢の信徒を抱える宗教と比較して、仏教は決してマイノリティに属するような信徒が少ない宗教ではないのだ。これら異教徒間ではこの世界の認知の仕方がお互い異なり、また幸福や不幸の感覚も異なる事は想像に難くない。例えるならある国の人達は赤信号を「止まれ」と認識しているが、別の国の人達は「進め」と認識されているようなものである。
 これは私達にある事を示唆している。人間という種はあらゆる事象に意味を求める生き物である。発見した事象、物に対して、名前を与え、言語間のコミュニケーションにおいてそれらを参照する事で、情報空間上でもそれが存在しているように体感できる。人々が海という文字を書く、あるいは発音すれば、海辺の潮の満ち引きや広大な海の様子を頭の中でシミュレーションし、何の支障も無く会話を続ける事が出来る。しかし自分達はあまり意識していないが、言葉それ自体に実態は無く、発声はただの空気の振動であり、文字はただの線の集まりである。これは私達が体感する苦しみに対しても言えるだろう。私達が『苦しみ』と認識しているものも実態は無く、自分達が定義しているものに他ならない。その典型的な例が、先のイスラム教、キリスト教と、仏教の『苦しみ』の定義と救済によって導かれる結果の違いだろう。私達はどうも情報的な観念を実際にあった事として身体に体感できてしまう、だからこそ会話というコミュニケーションが可能となるのだろうが、その副作用と言ってよいのか、あまりその情報的な観念を深く言及せずにそこから導かれる結果ばかりを追求している。人々は言葉を紡ぐことによりそこから導かれる表現や結果に感心し、そこから先の事について興味がいきがちであるが、なぜ言語が成立するのか、なぜコミュニケーションが可能なのか、という原始的な部分についてはあまり注意を払わない。繰り返しになるが、同じことが原始的な苦しみという認識についても言えるだろう。結局の所、苦しみの定義しだいで私達は赤信号を進めと定義したり、進めとは後進の意味であると認識を変えてしまう事が可能なのだ。そこには定義する人間がいるだけで実態が無いからである。
 私が思うに、言葉やコミュニケーションの成立も含めて、このような実態の無い感覚に対して苦しみという言葉を割り当てる、すなわち苦しみの定義には、自我の成立が関わっているのではと推測している。この本で再三にわたって語られる、私達の人生決定や行動様式には親の影響が深く介在している、というのがその表れの一部である。何もないまっさらな状態、常識や理念の無い子供達は、大人や親達に触れる事で常識というものを学ぶ。学ぶという行為と洗脳の違いをここではあまり深く取り上げないが、常識を身につけるのと同時に子供達は自分の言葉で自己表現するにあたって、自我というものが芽生えてくるだろうと思われる。これら自我の成立の過程で、苦しみというものが決定されるのではと私は思う。子供にとっての大方の苦しみは親との離別、あるいは死別である。そしてこのように俯瞰でき、様々な思考や思いを巡らす事ができる、今この宇宙に存在している自分が消える事である。だからこそ、救済を本願としている宗教はこの自分や他者の霊魂といったものを扱っているのだろう。このように自我の成立の過程で苦しみも定義される。
 死は一般的には人間にとって避けたい苦しみの一つと数えられるだろうが、私は人々の苦しみの定義が全く正反対に変わるのも、死であると実感している。我々に限られた時間を意識させる死は時として人々の生き方を変える。換言すれば苦しみそれ自体の定義が変わる事がある。
これはとある人間の話であるが、ある男は仕事に追われる日々を過ごしていた。住宅ローンの返済、その他もろもろの費用、男の頭は借金や今現在担当している仕事について考えてばかりいた。ある日男は腹に激痛を感じ、急いで病院に掛かった。医者は入念に彼を診察し、険しい表情で彼に病名を宣告した。宣告されたのは末期状態のすい臓がんであるという事だった。
男は自分の耳に入った病名を、何かフィクションのドラマでも見ているような、冗談を聞いているような面持ちで医者の顔を見返したが、医者は残酷にもその男に残りわずかの命である事も伝えた。
ほんの数カ月の限られた命である事を伝えられた男の人生観は音を立てて崩れた、残された家族達、残された借金、仕事、成人した子供達が結婚し両親として見送るはずであった未来、自分が死ぬ事によって波及する家族の苦悩に心が引き裂かれ、将来体験するはずであろう未来が突然真っ暗になったのである。
家族に自分の命が残りわずかである事を伝えた男は、延命の為に闘病生活を送るべきか暫く考えていた。残された時間を意識し男は今までの生き方を振り返り始めた。殆どの人生に死というのを意識しなかった、ただ他人よりも幸せでいられればいい、辛い事を回避し楽をしたい、そういう人生を送っていた男は気づけば就職し、気づけば家庭を持ち、気づけば子供達は独立し、気づけば自分は存外にも歳を取っていたという有様だった。男は改めて思った、もし日々の人生の中で、限られた命しかないという意識であれば、今までのような怠惰な生き方はしていなかっただろう、一瞬一瞬を大切に過ごし、自分の意思決定を尊重し、後悔の無い生き方をしていただろうと。もしこのまま時が経過し死に至った時、果たして自分は満足して逝けるだろうかと。
男の中で価値観の変遷が起きた。今まで重要だと思っていた事柄が最下位に転落し、何気ない当たり前だと思われていた日常が非常に重要に感じたのである。男は延命治療を受けず、残された時間を大切に使おうと思った、今までできなかった事、やりたい事をやろうと思った。会社には長期間の休職願いを出し、健康な状態ではないにもかかわらず海外に旅行に出かけた。国外に関心はある方では無かったが、絶景や見た事ないもの知らないものに触れてみたいと思ったのである。また旅から帰ってくると家族と親密に接し始めた。男や家族はこのような談笑や触れ合いも出来なくなるだろうという意識の元で残された時間を過ごしていた。
ある日がんの状態を確認しようと病院にかかると意外な事が解った。信じられない事に末期状態であったすい臓がんが寛解していたのである。病名を宣告された後の男は生きていて体感する日常にありがたみを感じ、日々の生活を多感に過ごしていた、それが影響を及ぼしたのか、身体は健康な状態になっていたのである。診察後の男はまだ自分は生きる事が出来る事に感謝し、本来は得られていなかったであろう時間を何か大きなことをするために使おうと決心したのだった。
限られた命の宣告は男に絶望を与えた。しかし死と生を俯瞰し、死が身近に自分の背後に迫っていると認識した時、彼が今まで感じていた苦しみは優先順位の変化により全く些細なものへと変わってしまったのである。日常において今生きている事に感謝している彼にとっては、将来の不安も過去の後悔といった苦しみを体感する事はもうないであろう。死は彼の苦しみの定義を変えたのである。
 常々不思議に思うのは、人々が苦しみだと認識している事象は大抵の人が共有できるものだが、幸せだと感じる事象はあまり共有できてはいないのではないだろうか、という事である。仏教ではこの世界は苦しみで出来ていると説く、その要因として唯識といった自己の認識の定義によって苦しみは成立するとし、悟りの手順を解いている。この世界は苦しみで出来ているといった発言に多くの人間が納得するだろうが、この世界で生きているという事は幸せであるといった発言に共感を得られないのは何故だろう、死といった生命現象に訪れる事象を共通認識として辛い、苦しいと認識しているから、そこから派生する事象については大多数の人間が苦しみであるという風に納得できるのかもしれない。殆どの人間は死ぬ可能性のある職に好んで就こうと思わないだろう、例えば兵役などである。戦争になった際に自分が死ぬことなく母国は敗戦しないという事を知っていれば、兵役に就く行為を拒否するだろう、自分が死んだ場合無駄死になるからである。なるべく死が訪れる状態から回避し天寿を全うしたい、短い人生を幸せだと思わない、とほとんどの人が共通認識として持ちこれらの意見に首肯する。では、死という概念から離れ、日常を送っているはずの人間が、今が幸せであると認識できないのは何故だろうか、ほとんどの人達が苦しいと感じあらゆる救済を求める行為が、今日までに繰り返し行われているのは何故だろうか。
 理由の一つとして、人間は苦しみを見出す能力には優れている。例えば辛い作業の連続、楽しくない行為、身体に感じる苦痛、明日わが身に何か起こるかもしれないという不安などである。これらに対して幸せだと感じる事を想像するのに容易には思いつかない。思いつくとすれば、大抵は身体といった物理的な気持ちよさ、快感や刺激ではなかろうか。それらは記憶するのに容易であったり想起するのはたやすい、しかし物理的な快感は実態が伴わない恐怖、不安、苦痛とは違う。私達は起こっていない事象に対しても苦しみの対象として思いつくことができる、愛する人が死ぬという別れは必ず訪れる、そういう事を想像すると今起きていないはずなのに涙が止まらない、あるいはいつか自分は死ぬ、そうなった時、自分という存在が消えてなくなる、最後にはどういう状態になるのかは誰も知らない、天国や地獄があるのか、不可知の状態へと将来自分は必ずあってしまうのだという事を想像すると、恐怖の中で悶えるようになってしまう。このような観念形態に対しての苦しみと、物理的で具象的な身体の快感とは概念が異なる。
私の感覚からすれば、苦しみに属される諸事象は幸せよりも抽象的で情報的なもので、人間は容易く想起しやすいらしい。例えばキリスト教徒でなくても原罪の概念は何となく理解できるかもしれない。一体何人の人間が、今までの自身の行いは潔白であり騙すといった他人を謀る行為を一切していないと発言できるだろうか。誰しもが欲にまみれた汚らわしい言動をしたことがあるだろう、完全なる善の神の前では自分は俗に染まった穢らわしい存在である、このような価値観からすれば、人間という種はエデンの園から追放されたアダムの子孫で、生まれながらにして罪人である、という言説にも妙な説得力を持つ。罪人であればこの世界で自分が苦しむのは当然だ。
あるいはこうとも受け取れるかもしれない。生まれながらにして自分が苦しみを感じているのは、前世の行いが悪かったからである、他の人間が生まれながらにして幸せを享受できたり、富裕な家庭や貧乏な家庭に生まれるといった不公平な出来事は、前世の行いが関係している。だから今自分が苦しめば生まれ変わった時に良い思いができる、というように。
これらは各宗教教義内での苦しみという認識に対する説明原理であり、これらの宗教に属さなくても何となく体感的に正しいと心が引かれてしまう人間がいるのではないだろうか。不思議な事に苦しみに至る原因を捨象し説明原理として言語化する事を人間という種は長けている、この能力に人間が依拠する限り宗教という行動様式が消える事はないだろう。
このような苦しみに対する説明原理に容易く信仰の類を持つかもしれないが、しかしこれらの宗教内の苦しみの説明は一様ではないという事を念頭に置く必要がある。不幸の説明原理を提供する人間は一見あなたに苦しみを和らげる手段を教える救世主のように見えるかもしれない。本当にそうならそれはあなたにとって良い存在となる。が、客観的に見れば、あなたは他者を自身の心の隙間に招き入れてしまっている。自分の不幸の解消の為とは自分では思っていても、他人から見れば、どう見てもその救世主に利用されているという事も十分ありえるのだ。それは情報化社会である現代に生きている我々には身近に起こり得る事であろう。
例えばこういったものがテレビで放送されたとしよう、「低学歴であれば安定した高収入の会社へ就職できません。あなたは本当に我が子の事を愛していますか?、そうであればお子さんを偏差値の高い大学へ入学させる為に塾に通わせるべきです」。この言説は貧乏な家庭に恐らく有効だろう。別に子供が偏差値の高い大学へ入学を希望するのは自由だが、問題はこの言説によって、「収入が低ければ社会的には負け組、学歴の無い人間も同じである」と自身の生き方に勝手に不幸のラインを引いてしまっている事である。
このような言説は得てして主体性の無い人間に響いてしまう。誰とも比較せず自分の生き方を貫く人間に不幸を感じる事は少ないかもしれない、がほとんどの人はそうではない。大体の人は受動的であり、ある意味社会性があって影響力のある人間の言動に深く考えず頷いて感化されてしまいがちである。
しかし上述の言説のようなものは、例え高名な人間が発言しようとも、一旦立ち止まって熟考する時間が必要である。他人の助言によって人生観が変わる事は生きている間でたくさんある。それは素晴らしい事で本当に当人にとって救いとなる出来事もあるだろう。しかし大衆に情報を発信するという現代の情報機関や、媒体といったものは『ビジネス』という至極利潤に則った観念により活動されているものだ。陰謀を論拠に他人を全く信用しないのは逆に自身の行動を束縛する事になるかもしれないが、経済活動を根本においているのか否かを考慮せずに、相手の言動を完全に信用するというのは止めた方が良い、特にマスメディアといった経済活動を前提においている媒体はそうである。
他人の利益獲得の為にわざわざ「今の自分は不幸なんだ」と自身の人生観に不幸のラインを引くことは愚かしいことである。当たり前だが人は幸福を感じるものがそれぞれ異なる、と同時に苦しみを感じる要因も人によって違う。上述したように結局の所苦しみに実態は無く、当人によって決められているからである。私はその人々によって感じる苦しみの違いが、「自分は不幸だ」と内省的に判断してしまう自己認識を俯瞰するための良い材料となるのではと思っている。



 
2 自殺の論理


 私はあらゆる生物について詳細な知識があるわけではないが、人間以外の生き物で自死をする生き物がいるのだろうか。仮にいたとしても人間のような苦しみからの解放の手段としての自死とは違う目的の基に行うものだろう。人間以外の生物は種の存続や繁栄を根本とし、弱肉強食の世界の中で自身の遺伝情報が後世に残るようたくさんの子供を産む。種の存続や繁栄が人間以外の全ての動物達の共通した行動理念かは良くわからないが(例えばジャイアントパンダの雌が妊娠できる期間は一年間に数日程と、ジャイアントパンダの繁殖能力は低い)、仮にこの認識下で動物達が自死を選択するのであれば、やはり種の存続や繁栄を目的とし行うのであろう、そう考えると人間とはこの認識からは自由な種であると言えるかもしれない。人間が取る自殺という行動手段からは、少なくとも人間は『生命における種の存続や繁栄』よりも『個人的な苦しみからの解放』の方を優先していることが伺える。
 自殺は死因として病気、不慮の事故等と同様に割と高い順位に位置づけられる事がある。これは環境やあらゆる分野の技術が発達し、生命を長く維持できるよう人類が志向した結果なのだろう。つまり死ぬことが稀となった現代では、自らの手によって死ぬ行為が死因として高順位に入ってしまう、だから一概にある国の死因に自殺が高い順位にランクインしているからといって、その国は精神的に生きるのに辛い環境であるとは言えないし、自殺が死因としてランクインしていない国よりも医療が発達していることの証左として先進的な国であるという見方もできる。とはいえ無碍に自殺という死因を「個人的な感情による行動なので、技術や政治で抑制できない事象だから放置してよい」という事にはならないだろう。もしある国が、自殺を社会問題ではなく個人の命に対する価値基準によって引き起こされたものと評価しているのであれば、その国から自殺が減少することは無い。何故なら私の考えによれば、自殺という行為には大多数の人間に対する告発のようなものを含んでいるからである。
 当たり前の事だが、私達は身体的にも精神的にも他者の感情を完全には体感できない。辛うじて言葉やボディランゲージ、絵や音楽といった表現を通して、断片的に他者や表現者をある程度理解した、という不確実な感覚を抱いているに過ぎない。私達は自分と他人を自然に峻別している、だからこそ言語を生み出した、あるいはある個人の表現という概念が生まれたと言える事が可能かもしれない。これは換言すれば、他者の苦しみを当人同様に理解するというのは無理に近いという事である。「あなたの苦しみはよく理解できる」というのは嘘である、本当であれば人類は喋るという面倒な感情表現を生み出しはしない。
 他者の感情を完全には理解できないというのはある意味生存において重要な機能である。いちいち他人の感情に感化されれば、全ての作業に支障が生じるだろう。ある人が不機嫌な感情を抱いていたとする。その人と共同で作業すればあなたも同様に不機嫌な状態で作業を続ける、と同時に他者にもその感情が伝播し作業の効率性が著しく低下する。ある人が自殺を実行するような感覚に陥っていたとする。その人の感情にあなたが感化されれば、その人が自殺を行った後、後を追うようにあなたも死ぬだろう。このような連鎖が続けば人類は消滅する。人間をコンピューターに例えるなら、言語といった意思疎通の効率性の悪いプロトコルは自分を守るファイアウォールのような役割があるのかもしれない。しかしこれは別の側面では残酷な要素とも言える。
 映画を例にとると、例えば喜劇というジャンルがある。劇中では様々な人物が視聴者を笑わせる為に演技をするが、あなたがこのジャンルにおいて笑ったシーンを思い起こしてみると、誰かの痛々しい場面というのはないだろうか。誰かが主人公の代わりに被害を被る、あるいは身体的なパフォーマンスとして重傷を負うような演出が場面にちりばめられている。一応フィクションの体裁として傷害を負った人物は何事も無く行動していたり、軽くその場を流していたりする。私達はその場面を見て笑ったりするのだが、客観的に考えれば人が痛いという感情表現をしている場面を笑ってしまうというのは、非常に残酷な行為ではないだろか。このような行為が出来てしまうのは結局の所、そのような状況に至っているのは自分ではなくて他人だからである。他人だから笑える、他人だから傷害ですらも笑いという感情に繋がってしまう。そして恐らくこの延長としていじめという概念があるのだろう。本当に他者の痛みに共感できるのであれば、いじめが学校内、あるいは社会において発生する事は無いはずである。繰り返すが、自分の人生とは関係なく他人だから『面白い』というごく単純な理由で他者に傷害や精神的苦痛を与えるのである。仮にいじめをした人間によっていじめられていた人物が自殺したとしても、当事者は心に何の感情も起きないのではないだろうか。罪悪感を装うような事をするかもしれないが、年を重ねるにつれそのような記憶は忘却の彼方へと進み、「そういえばそんな事があったなあ」と軽く言及される程度に留まるのではないだろうか。結局の所全て他人であるという認知に帰結するからである。
 さて、人間として現代社会に生きているあなたは、無自覚にも自分と他者を峻別するような行為を実践しているはずである。あなたは不幸にも自身の生きる気力が絶えてしまうような致命的な状態に陥ってしまった状況を想像して欲しい。言葉で死ぬ程辛い苦しみを他者に伝えるも完全には理解されない。それでいて他者はあなたの為を思った行為と称して、自分が思う人生観をあなたに述べる。なぜなら完全にはあなたの感情を理解できないのであれば、自分の言葉で自分の感想を述べるしかないからである。死ぬほどつらい気持ちを理解できるのであればあなた同様、他者も即座に苦しむべきであるが、平静であなたの話を聞いていられるのは上述した喜劇の感覚と同じロジックである。
この先もこのような辛い気持ちが継続する、それでいてこの気持ちを他者と完全に共有する事はできない。現状を変えられない、言葉で他者に伝えるだけではどうしても環境の改善には至ってくれない。このような状態に陥った人間が取りえる唯一の解決策とは何だろう、それは自分の死をもった表現、つまり自殺である。自分の存在が消える事でしか、死ぬほど辛い感覚を他人に伝える事は無理なのである。これが私が自殺とは告発の要素も含んでいると述べた理由である。
 自殺は表現となる。生命を絶つ手段は色々ある、その中で自殺をする人間は他人に自分の死をわざわざ仄めかしたり、大勢の人間の視線が集中するような場所で死ぬ、それはやはり自殺者は死をもって伝えたい事があるからだろう。
他人の自殺に対して何の感慨も起きないのであれば、それは社会において不利益な連鎖を作るに違いない。当人の感情の問題であり、衝動的に自殺という行動を取ってしまう人間には最初から自殺を予防する事はできないと為政者が割り切るのであれば、それは国難に至る病を放置しつづける無能の為政者と認識されてもしょうがない。あなたが自殺者に対して何の感慨も起きないとしよう。「自殺する奴は最初から自殺するメンタルだからしょうがない」とあなたは自殺の報を聞くたびに軽く流してまう、やはりそれは他人に起きた出来事であって、あなたは自身は何の苦しみも絶望も体感していないという理由からだ。大勢の人達の視線が集まる中で命を絶つ人間に対して「死ぬ間際まで自己顕示欲が強い人間なんだなあ」と冷たい評価をするあなたはいつも通りの日常を過ごす。しかし全く自殺をする事が無い、起こりえない人間、そしてその人を取り巻く環境というのを想像して欲しい。私が思うに、他人の死や不幸を悼んだり、他人の事を自分の事のように共感する人間ほど、自殺をする事も無く、また周りにそのような事をさせない環境を作るのではないかと思っている。このような人間に備わっているのは無条件の愛情ではないだろうか、恋愛における愛情ではなく、優しや慈しみといった感情を何の関係性も持たない人間に対して抱く事ができる人間は、他人の死どころか自死をも断固として止めるだろう。
さて、仮にそのような性格とは正反対の性格を持っているあなたが、ひょんなことから自分自身も自殺の感情の境地にほんの少しだけ触れてしまったとしよう。「ここから消え去りたい」「生きているより死んだ方が楽になるのでは」、軽く頭の脳裏で死を仄めかし苦痛から逃避するような思考をしていたあなたは、徐々にその思考に長い時間を捧げてしまう事になる。うわ言のように述べていた言葉は習慣的に繰り返し強い語気で口からこぼすようになり、脳内に死を連想するようになる。その過程であなたはこう思うに至る、「まさか自分が自殺を考えるような人間だったとは……」。自分の弱さに対面したあなたは普段の自分の言動を振り返り、他者に対して自身の弱さを見せないように接してしまう、何故ならあなたは他人に「そういうメンタルを持つ人間である」と認識されるのを忌避するからだ。弱さを他人に見せた時点で負け、そのような自己的なルールを遵守していたあなたは抑圧していた感情に次第に自己の精神を蝕ばまれ、他者に助けを求める事が出来ず最終的には自殺という手段を取るに至る。そしてあなたの自殺の報を聞いて、何の感慨も起きない他者はあなたと同じような感想を抱くだろう、「自殺をするような人間は元から弱い人間なんだからしょうがない」。
しかしこのケースから導かれる結論は、「自分は自殺をしない、死ぬぐらいなら死ぬ気で自殺以外の行動を取るであろう」と自身の性格を判断していた人間が、体裁や他者の視線を気にし、逃げ場を自分から放棄し自殺の観念のループに陥ってしまった、ということだろう。その根本の原因は自分と他者を峻別する冷めた感情と共感という行為の希薄さではないだろうか。他者と自分との境界が深ければ、自分の行為が全体にとって利益になるという俯瞰的な思慮も恐らく得られない。もしあなたが誰かの『死にたい』と感じている状況に対して救いの手を差し伸べた場合、救われた人はさらに別の誰かを救うかもしれない、そしてあなたが『死にたい』と感じた時、巡り巡って誰かがあなたに救いの手を差し伸べるかもしれない。可能性の話で他人にした行為が自分に確実に返ってくるとは限らない、しかしこのような共感的に行動する人間が多くなればなるほど、あなたを助けてくれる人間は増えるだろうし、そのような社会では自殺率は恐らく改善の方向に向かうだろう。
上述から為政者が自殺率の改善として策を練る前に認識するべき事がある。まず一つは『自殺とは個人の問題ではなく社会全体の歪である』という事。歪であるという事はそれを実践させる根本的な原因が社会に存在しているという事である。これを解消しない限り連鎖的に自殺が発生するだろうし、社会全体が個人の問題であるという認識のままでは自殺をさらに助長させる可能性がある。歪を解消する手段があるかどうか検討する前に、「この問題は自分とは無関係ではない」と大衆に認知させる事が重要だろう。
二つ目は『自殺は大多数の人間達に訴える表現手段として機能している側面がある』という事である、仮に死ぬことの無い代替の表現で大衆に訴える事ができれば、自分の苦しさが死以外で表現できるのであれば、自殺を図る人は死ぬ事を止めるのではないだろうか。それでいて彼等の「死ぬことでしかこの苦しさを伝えられない」という認知を変える事が出来れば、自殺を予防する事は可能ではないだろうか。あなたが何か軽いストレスを感じた時、「むかつくから死ぬ」と極端な方には考えないだろう、この世には軽いストレスを解消するための手段がいくらでもあるからだ。
もし同じように、「もう自殺をするしかこの苦しみから逃れる手段はない」という人間に対して、その手段以外にも逃げ場、あるいは自身の感情のはけ口があると認識させれば、彼等は自殺を思いとどまるに至るのではないだろうか。為政者は大衆に死以外の苦しみを解放する別の手段を認知させる、あるいは提供する必要がある。と同時に、もし周りに「死にたい、苦しい」と訴える人間がいた場合、大衆はその人に対して「逃げていい、死ぬほど苦しい思いをし続ける必要はない」と現状から逃げる事を助言できるくらいの意識改革が必要だろう。
 しかし動物達に自殺という現象が見られないなかで、同じ動物という分類に属す人間達がこのような行動を起こすのは奇妙な事である。動物と人間との違いを突き詰めれば、人間が自死を行うプロセスを事細かに説明できるかもしれない。そうなれば自殺の根本的な解決に繋がるであろう。私が思うに動物達は生と死について人間達と比較すると原始的な感覚で理解に落とし込んでいるのではと思う。つまり単刀直入に言えば、天国や永遠の命といった死後の世界の創作を無しに、ただ生命としての存在が消えるというごく当たり前の現実を実直に受け取っている。そこに恐怖心や死を悼むという感情は無い、それはそうで目の前に横たわる死体は物であり、悲嘆しようが泣きわめこうが死という現実からは何も変わらないからである。
しかしながらどういうわけか、人間は死んで事切れたこの物体に対して記憶に残るように、墓などの何らかの意匠を施したものを地中に埋めた死体の上に築き、時には命日などで墓に集まり死者を悼むという行動を取り、かつて生きていた人間の活動を記憶に留めようとする。それでいて不可知である死後の世界についてあれこれ考察する。既存の宗教を参照するに、死後の世界は各宗教ごとにバラバラであり統一的な感覚はない。当たり前である。死んだ後に生き返ってどういう世界が存在していたのか報告する手段が無いのだから。このような不可知な世界について思考を巡らし妄信するという至極不利益な事を人間がする理由はなんであろうか。なぜ私達は動物達のように死を実直に受け取れないのか。
 死を実直に受け取れないとは、換言すれば私達は実は生と死の感覚に疎いのである。シャボン玉を私達人間の生死に例えよう、水に石鹸を入れ泡が出来る状態になるまで石鹸を水になじませる、ストローの先端をその水につけ、上手くシャボン玉が出来るようにストローから息を吹き出す。上手くいけばシャボン玉が出来上がり空中にフワフワと浮遊する、しかし永久に浮遊することなく最終的にはそのシャボン玉は破裂して消えてしまう。つまりこの世から消えてなくなるのだ。
 子供達はシャボン玉作りに無邪気になりたくさんのシャボン玉を生み出す、と同時に作られた大量のシャボン玉は時間が経てば消えてなくなるのだが、シャボン玉が作られては壊れるこの過程は自然現象であり、そこに超越的な存在による介入や壊れるシャボン玉を悼む感情などをいちいち喚起することはない。しいてこの過程において何らかの意味付けを行うのであれば、シャボン玉は子供達の意思決定によりその存在が形作られたという事ぐらいだろう。これは別に形而上学的な見方を提供しないように思う。何故なら何故『私』という一人の人間が生まれたのかと問えば、それはあなたの両親はそういう存在を欲したからか、あるいは俗的な事を言えば単に性交渉が気持ち良くて避妊しなかったからという事くらいではないか。あなたが子を持つ親であればわかると思うが、大抵の親達は子供を作るのに崇高な理由を欲していない。その証拠に親であるあなた自身が「私は親の崇高な理由により生まれた」とは自覚していないだろう。自覚のない人間が子供を作るのだから、本来はその子供に有意な存在理由などは無く、自己にこの世に生まれた理由を問い続ける必要はないはずである。同じようにシャボン玉を作った子供達の意思決定について深く考察する事により、作られたシャボン玉は何らかの実りのある生き方を体感できるだろうか。私はそこで成立しているのは無慈悲な自然現象だけだと思う。無慈悲だからこそ人は何らかの意義を生と死というサイクルの中で見つけたい、最終的には動かなくなる物体、死体に成り果てるという現実を忌避し自己の存在意義を保持し続けたいのである。このような見方に立てば人間は生死に対して酷く脆弱であり、生死という生命普遍の原理に対して不寛容なのである。
 動物達は生死を実直に受け取っている。死体を地中に埋める事は無く、その上に死体の存在を知らせるサインを築くという奇妙な事はしない。人間達の死後に対する有り様と比較するに、人間以外の動物達に死後の世界の観念を窺うことは出来ない。ここで推測されるのは人間とは隔絶した動物達の生死の概念である。彼等はどういう目線でこの世界を見ているのだろう。
 宗教から離れ科学史観に従うのであれば、人間は猿から進化した。そして生命がこの地球上に誕生したのは35億年前と科学内では推測されている。当たり前だが、生命が誕生する前は生と死という概念は無かった。ここで生と死を定義するなら、生とは生命現象が誕生する事をいい、死とは生命現象が消滅する事をいう。何を持って生命現象といえるのかというと、私はそこに生命としての意思決定が可能かどうかだと思う。もっと言えば生命とは時間を体感できるものである。そこらに転がっている石ころに時間は流れていない、流れていないとは換言すれば、その石ころは時間を体感していないのである、つまりその石ころは生きてはいない。
 生命現象はこの宇宙という空間内において時間を体感している。時間を体感できるとは時間という概念よりも抽象的なものを生命現象は持っているという事である。私はそれは意志だと思っている。意志があれば行動する事ができる、意志があるから生きようとする、そして意志がない物体はもはや時間を体感してはいなく、死んでいると認識する。動物達はこの二極的な状態を認識し、この宇宙で時間を体感している。そして同じ生命現象である人間も本来はこのような原始的な生死の概念を持っているはずである。
 このような二極的な状態を認識している生命がこの世に生を受けて寿命が尽きるまでに行おうとする事はなんだろう。ある人はこう言うかもしれない、「せっかくこの世に生を受けたのだから、自分が生きていた証を何らかの形で残したいと思うのではないか」。この回答はひどく人間的な感覚だと思う。上述した二極的な認識の下、この世界を見渡すと意志を持たずに動けないものと意志を持って動いているものがある。数字を用いて例えるなら『1』と『0』、『ある』か『ない』かの世界である。ほとんどの物体の状態は『ない』であるが、生命として生きている自分は『ある』というカテゴリーに属している。この世界の中の『ある』というカテゴリーを意識し、さらに注視してみると、そこには種々の生命が跋扈している事がわかる。あるものは地中で生活し、あるものは水中で生活している。さて、生死について二極的な『1』、『0』の認識を持ち、大規模で複雑な生態を辿ってきたこの生物達に、ある特定の種が体感してきた日常や個人的な感情を記録としてこの地球上に残そうという感覚が湧き起るだろうか。仮に残すとして、生きている存在が過去に生きていた生物が残した記録を参照しようとする動機とは何だろう。詰まる所、彼等動物達はその記録をこう認識するだろう、「これはもう生きていない、死んでいる」。
 生を生みだしたのが原始生命体であれば、死を生みだしたのも原始生命体である。身近に生死の概念を感じていれば、特定の種のある個体の感情についてそこまで拘る必要はない。個人的な人生観やそこから派生する個性といったものは種々の生命体の存在や二極的な死生観により埋没される。そのような些細な事よりもこれら生命体にはもっと重要視するべき事がある、それは種の多様性と繁殖である。生を受けたこの世に生という概念を広めたい。自身が所属するカテゴリーをこの地上に遍く押し広げたい。「我々には寿命という限りがある、だからこそ合理的に長く生きられるような行動を取り、子孫を残す事が重要である」、彼等はひどく理性的である、何故なら生と死が身近にあるからだ。このような存在に自らの命を絶つという不自然な行動など取れるだろうか。これが人間が人間以外の動物達と比べて生と死の感覚に疎いという理由である。人間はこれら動物達が持つ普遍的な生死の概念から飛び出している。では人間における死生観とはどういったものだろう。
 動植物達の生き方を注視していると繁殖という行為に重きを置いている。人間のように種同士でペラペラお喋りをしたり、食糧の確保以外に余暇を楽しむといった無駄な事にはあまり重きを置かない。太古の神話のような「働く事は神による懲罰である」といった生きるために時間や身体を消耗する事に対する忌避感や「時は金なり」、「働かざるもの食うべからず」といった信念的な感情も恐らくない。呼吸という動作をするのに思想や観念形態が必要ないように、彼等にとっては一生を生存行為に捧げるという事は至極当然の事なのである。一見すると彼らは自由な行動や自由な思考といったものを体得できず、本能的な生活様式に束縛された不自由な生き物と人間側の視点からみればそう感じるのであろうが、ある側面から見れば人間の方が動植物達よりも不自由な面はある。そして私の感覚からすれば、恐らく人間が価値を置いている要素について、動植物達は全く興味を持っていない。人間に出来る事を彼等は身体的、能力的に出来ないのではなく、正しくは無頓着なのである。生物学的に人間とそれ以外の動物達について熟知している人間であれば、恐らくこの言説について異議を申し出るだろう、環境や遺伝子といった複雑な因子によって生命体の形態は変わるのであって、個体の好みや感情により生活様式が大きく変わるわけではないと。
だが人類が誕生する以前に様々な生物がこの地球上で誕生しては絶滅するというサイクルを繰り返してきたその歴史の中で、人間という種のみが文明という物を生み出すのに至ったのには、私は生物学的な視座からでは説明できないように思う。比較的生存本能という要素で人間以外の生命現象を区切れるわりに、人間はその区切りからは外れすぎている。生物が種を増やし繁殖するというプロセスにおいて、無駄な要素が多すぎるのである。繁殖するのに言語はいらない、信仰という太古の時代から人類が続けていた行為は人間以外の生物にとっては必要ではない。多様性を持ち地球上で生息している生物達から見て人間の行動様式は特異すぎる、私はそのような存在が猿から派生し誕生したのは、やはり進化において種による好みや感情が強い作用を及ぼしたのではと、人間である私は感情的に理解してしまうのである。つまり地球上に生命が誕生して以来、誰もが無関心だった物事について、我々の始祖は興味を持ち、そしてそれを人類という種をもって実践し続けようと決心したのである。ではそれは一体何なのであろうか。
 話を前述した人間における死生観について戻そう。我々人間とそれ以外の動物達との違いは、端的に言えばセルフストーリーを信奉しているかどうかであると思う。つまり、この宇宙に貫徹する自然法則からは独立した完全なる意識というのを保ち続けていると人間は考えている。ここでいう意識とは、別の言葉で言い表すなら自我ということになるかもしれない。この自我は、自然法則から独立していると前述したように、細胞といった物理的な要素で構成されている身体には束縛されない。それでいて今現在体感している時間や空間といった要素の干渉を受けない。例えば時間においては、今現在から過去を振り返り、『私』はどのような歴史を歩んできたのか想起する事ができる。それと同時に未来という不可知の領域における自分の姿を想像する事も出来る。そして生まれてから死ぬまでの期間を『私の一生』と俯瞰し、ある年齢において違った選択をした場合、どのような歴史を歩んでいたのだろうと思考実験が可能である。
さらに空間においては今現在考えている自分を俯瞰する事が可能である。今現在の自分の有り様を俯瞰し思考すらも観測行為という意識の下に置けるという事は、自我とは身体はもちろんの事、体感している諸要素全てから独立しているという事である。現にあなたは目の前にこの文章を書いている著者がいないにもかからわず、著者の人格や姿を想定する事ができる。物体や環境に対する知識が無くても小説などが読まれているように、文字情報によって我々は認識を形成する事が可能なのである。「月の裏側に辿り着いた」という文章を読めば、あなたは見たことが無い月の裏側を勝手に想像し、それについて語る話し手を想像することができるのである。このような事が可能なのは前述するように、我々の体感している諸要素(時間と空間、そして考えているという行動すらも!)は自我の意識下にあり、自我自体はそれら諸要素から独立しているからである。
 このような人間の自我意識からある事が推測される。それは我々は根本的にこの宇宙について無知だという事である。この世界に貫徹する普遍的な法則から独立し、他者の自我とも分別し、血縁関係にある親すらも自分の自我意識とは混じらず独立した別の存在であると認識するその過程からは、この世界において私はたった一つの唯一の存在、完全でありただそれ自体で成り立つという意識が根底にある。もし私とあなたは同じであるという認識であれば独立した自我は形成しようがないであろう。仮にその認識であるのなら、今地球上で生息している種々の生命体とは繋がりがあると認識し、いちいち言語表現を用いて個々人の感情を他者に伝えるという行為は発生しないはずである。それでいて死の恐怖は恐らく薄いであろう。今生きている生物としての私という存在は親から始まり、その親にも親がいて、その親から子へと脈々と生命が継続している。そして私と子、親との間に自我といった境界は無い、ただ生命としての連続性がある。このような認識下では種の連続性が大事であり、いちいち個の存在理由について考察する必要はない。そして個が消えるという事についても恐怖はないし、死後の世界など考えるのは無駄な行為だろう。恐怖が生じるとすれば、その生命の連続性が途絶える事が彼等にとっての恐怖である。
このような生命現象の一体化、生命の連続性という認識による自我意識の欠如は、今現在体感している宇宙法則と私とに深い関係があると認識するのではと思う。だからこそ彼等動植物の意識内では神や天国や地獄といった奇態な存在、不可知な領域は必要無いのである。この宇宙に存在する法則全てが彼等にとっての認識なのだから。それでいて宇宙の始まりや終わりについて考察する必要もない。我々が自分と他者、親との違いを深く考察しないのと同じことである。「私と全く同じ自我などこの世には存在しない」、これが私という自我が成立する前提として無根拠に信じられているのだから、我々が何も考えずに自分と他者を区別し、はたしてその峻別は正しいのかと考察する必要性が無いように、宇宙の諸法則と生命は一体であると認識している人間以外の生命にとっては、宇宙について深く考える必要はないのである。
 この世界について無知だからこそ人間は知りたいという欲求が生じる、この世界について無知だからこそ人間は把握したいという欲求が生じる、この世界について無知だからこそ人間は死について恐怖を感じる。宇宙から独立した自我を持つがゆえに我々はその自我を中心に物事を考える、そこから自然現象に過ぎない生命の誕生や死について人間独自の解釈をする。これが宗教の誕生である。
自我を中心に世界を認識する象徴的な行為が宗教である。例えば太古の人間は神話を通してこの宇宙の成り立ちを理解しようとした。天高く我々を見下ろす太陽は人格を持つ太陽神の象徴であり、大地に実りをもたらす豊穣の神である地母神は母親のような感情や造形を持つ。哲学者であるアリストテレスは人間や動物の行動を通して引力を理解しようとした。彼曰く、人間は家を持ち、様々な場所に移動しようが本来の居場所である家へと帰宅する。他の動物達も巣穴といった帰るべき場所がある。つまり元の居場所に戻る法則がある。地上から石を持ち上げ手を離すと地へと石が落ちるのはこの法則による。このように人格といった自我から人格神が誕生し、諸法則を神話化し、さらに引力といった物理法則にも人間の行動を当てはめる。そしてこれらの行為は前時代的ではなく、科学が発達した今現在においても一神教や多神教は信仰され、その神々は人間と同じような自我を持つ人格神である。決して機械的で感情を持たないメカニズムが我々の魂の救済に関与しているという認識は持たないのである。それは即ち、完全にして絶対的で独立した自我の存在をこの宇宙から否定するのに等しいからである。
 長々と人間と人間以外の生物の生と死の感覚の違いについて話したが、今ここで人間の自殺についてまとめてみよう。ここまで話して分かった事として、一つ目『人間は動物のように生存行為に一生を捧げる程強くはできていない』、二つ目『人間としてこの宇宙で生をまっとうするのに自我は必要不可欠な要素である』、という事が挙げられると思う。実は我々人間にとって、食糧を安定して確保する事、自分の遺伝子を受け継いだ子供の生存率、個体数等は別に一生を捧げる程重要な事ではない。安定した職業に就ける事や、高収入、付き合っている彼氏彼女が子孫を残す上で最適なパートナーかどうかは、現状認識における解決であり、これらを満たしたからといって「今私は一生の内で最高の幸せを体験している」という認識には至らないと思う。何故ならテクノロジーが発達した現代社会においてはそれら生存に関わる問題はとっくの昔に解決しているからである。現代社会において飢餓はほぼ起こっていない。労働は機械化され労働に時間を浪費する事は減った。結婚相手に必要な条件も時代ごとに変わっている。太古の時代においては男に求められていた事は身体の頑丈さや体力といった狩猟に関わるものだろうが、今の女性にとってはそんなものはあまり重要ではないだろう。これらを満たしていても人間というのは不満を持つし、場合によっては自殺する事もありうるのだ。
 人間には自我がある。幸になろうが不幸になろうが最終的には神に感謝したり、神に縋ったりするのである。超越的な存在に依拠するその姿は自身の自我の完全性を妄信しているのに他ならない。我々の生を駆り立てるのは信念や思想といった言葉であり、生存や繁殖といった動物的なものではない。「自分は絶対にこれを成し遂げる」という信念を持てば、その人は強く生きていけるだろう、例え自死を導くような環境に陥ってもである。自我から派生したその人の決心、信念がその人の生き方を形成し、死の恐怖や苦しみといった感情を掻き消すに至る。それら生き死には物理的な事象であり、自我意識の下では捨象される対象だからである。そう考えると今現在自殺者が増えている国々、社会においては人を駆り出たせる思想といったものが欠けているのかもしれない。自分の人生において達成するべき目標というものがあれば人は強く生きていけるのである。絶望的な状態に陥ってもその人が生を駆動する強烈な観念形態を持つこと、それはどんなくだらない事でもよい、私はそれが自殺者を救う最適な手段だと思う。



 
3 競争


 この世界で自分以外の人間が消えたらどれだけ生きるのが楽だろうかと考えた事はないだろうか。人間関係という煩わしいものから解放され何の障りも無く生活する事が出来る。人の目を気にせず自身の体裁といったものを意識する事はない、それらは他人という存在がいて発生するものだから。人間関係により古今において数多の慣習が生まれ人々を拘束し、そこから様々な事象へと波及したのだろうが、昔から複数の人間達、あるいは集団と集団という大規模な数の人間達に影響を与え、ある時はたくさんの人間達の生命を奪い、ある時は文明の躍進に寄与してきた概念がある。それは競争である。
 一つの事実として私達は勝ち負けにおいてある感情を持っている。それは他人に勝つ事を嬉しいと感じる感情である。これは奇妙なことだとは思わないだろうか。私達人類が動物とは異なり高度な文明を形成するにあたって、彼等文明を構築できない動物達とは異なる事とは何かと問われれば、私は親と子といった自身の遺伝情報を受け継いだ存在以外に対して共感能力を持てる事だと思っている。つまり自分とは全く無関係の人間が苦しんでいる姿を目撃し、自身も何らかのネガティブな感情が湧き起るという心理状態に陥ってしまう。この場合は当事者の感情を(個人的な解釈により)共有したという事になる。
 この共感能力は人類に直系の血縁を越えた集団意識をもたらせ、多様な共同体意識をもたらせるのに寄与し、高度な文明の構築と維持へと波及している。このような共同体意識を人間以外の動物達が持つ事は不可能ではないだろうか。
 例えばとある動物の集団において、外敵によりある一体の動物が殺されたとしよう。この集団が次に取る行動は、いかに我が子を外敵の標的にされないようにするかではないだろうか。その場合、犠牲になった動物を助けるという行動はとらず、出来るだけ殺された動物に時間を費やすように仕向ける。もし反撃的な行動を取れば、外敵はその集団に対して狩りを続行するだろうが、反撃せずに時間を与えてあげれば、殺した動物を食べ始め、その隙に集団は逃げるという事が可能である。つまり誰かを犠牲にする事で集団が被る被害を最小限に抑える事が出来る。被害を最小限に抑える事が出来れば我が子が犠牲になる確率も低くなるのだ。
 或いは分け与えるという概念の希薄性である。例えば集団において飢餓状態に陥った場合、ある一体の動物がどうにかして食糧を得たとしよう、その場合、その一体は集団の為にその食糧を均等に分け与えるという事をするだろうか。私が思うにその一体はまず自身の家族に優先的にその食糧を分け与えると思う。というのはやはり自身の遺伝情報を受け継いでいる個体の方が、他の個体よりも重要であり、自分にとって可愛い存在であり、生き残って欲しいという原始的な理由からである。さらに言えば、仮に集団の為に食糧を均等に分け与えた場合、一体一体が得られる食糧はとても少なくなるかもしれない。それよりもある特定の個体に食糧を集中させた方が、全滅を免れる可能性がある。同じく仮に家族内にのみ分け与えるとしても、均等に食糧を分け与えるという事は恐らくしないだろう。この先飢餓を迎えず食糧を安全に確保できるという保証はないからである。その場合、家族内で長期的に生き残る可能性の高い個体に優先して食糧をあげると思われる。
 以上が原始的な生活を続ける野生動物の合理的な行動様式だと思われるが、これら上記二つの状態に対して人間は律儀に合理的な行動を取れないのではないだろうか。
 例えば、あるテロリスト集団がある国の人間を拉致し、その国に対して自身の政治信条の実行のため国を脅迫したとしよう。脅迫内容は、今実行している政治活動を止めなければ我々が拉致している人質を殺す、というものである。
仮にこのテロリストの要求をのんだ場合、自国に甚大な被害が生じるのであれば、テロリストの要求を受け入れるべきではない。もっと言えばこのような人質を利用した脅迫を受け入れた前例を作ってしまうと、その国は「テロにより政治活動を変えることが可能である」という認識が浸透し、政治活動を変える手段として活発にテロ行為が行われるかもしれない。これはその国にとって政治家の選出と合理的な協議が全く意味を成さなくなってしまい、その国に禍根を残すことになる。よってテロ行為による脅迫は基本的には受け入れるべきではない。しかし、その国の国民の殆どはその人質を見捨てるべきであると合理的に決断するのは心情的に難しいのではないだろうか。恐らくは心情的に「これは非情な決断であり、本当にこの選択でよいのか」という心残りが生じるであろう。そうであるがゆえにテロリストは自身の政治信条の体現という目的のためにテロ行為を実行し続けるのかもしれない。普遍的に「絶対にテロリストの要求は受け入れない。人質を見捨てるのは当然である」という認識があるのであれば、そもそもテロ行為などという無意味な物は存在しないだろう。例年起こる自然災害に対して行政が、「さあ自然の神々にお願いして今年の自然災害を防ぎましょう」とお金をかけて神々を祀るようなものである。そんなものよりも防災設備に費用をあてた方がずっと現実的であり効果的である。しかし現実的にテロリストがテロ行為を続けるという事は、テロ行為は有効であり、このような人質を用いた脅迫により政治を変える国が存在する、という証拠でもある。つまり人間は動物程には非情にはなれない。
 もう一つの分け与えるという例に関して、あなたは無関係の人間達の為に一生を捧げてきた人間というのを見た、あるいは聞いたことがないだろうか。例えば、ある人間Aは恵まれない国の人間達の為に、ある異国へとわざわざ移住し、汗水流して働き、その国の人間達が満足に生きられるように環境を変えようと努力している。Aが何らかの見返りを得られるとは限らない、おそらく物質的な側面で見れば損であるという結論になるであろう。異文化であり環境が異なる国へと居住し、長年にわたってその異国の人間達と共同で生活したり、何らかの投資を続けるというのは並大抵の良心では維持できない。時には苦い経験をし、自分の行動が無にかえるという瞬間を味わったり、その国の人間達に対して悪い印象が生じる事もあるだろう。それでもAはその国の人間達の幸せの為に日々努力している。こういう生き方をしている人間というのをあなたは生きている内で一人か二人は聞いたことがあるのではないだろうか。恐らくこのような行動を取った人間を「素晴らしい人である」と人々は称賛し、善き人間の模範としてあなたは教えられた事があるかもしれない。ここで垣間見えるのは、自己犠牲は人々の心をうつ、という物である。確かにこの行動は現実主義的な動物の行動のようなものではなく、非常に人間的なものであろう。物質的な欲求がこの世を支配していれば、Aの行動は愚行として認識されるであろう、自分が取った行動に対して何にも見返りが無いからである。現代社会はお金がものをいい、人々はお金を得るために人生の殆どの時間を費やす。そのような現状の中で、Aの行動に心をうつという事は、人間は物質的な側面にのみ心を満たされているというわけではないという事である。つまり他人の感情が自身の生き方に影響を与えているという証拠なのである。
 あるいはこういうケースはどうだろう。誰か一人だけが幸せを享受するというのを忌避し、みんなが負担を共有するという精神である。客観的に考えれば、誰かがある分野を独占するというのは自然な現象なのである。足が誰よりも速い人間がいれば、誰よりも記憶力が良いという人間がいるだろう。世界で誰よりも富を増幅させるのに長けている人間が居れば、世界において一番人々を指導するのに長けている人間がいるのも自然な事である。そしてこのような順位付けが行われると、誰よりも富を増幅させる才能が無い人間がいたり、誰よりも指導力の無い人間というのが決定されてしまうのである。
さて、現代の人間達は平等を謳っているが、人々の身長が一様でないのと同様に、人々の能力は均一ではない。そしてこの世は往々にして、能力のある人間が能力の無い人間を使役する構造となっている。例えば集団を指揮するには中央集権的な構造にならざるを得ない。指揮する人間は他者よりも指導力が無ければならないし、それ相応の責任も生じる。そして指導者は強大な権力と共に恩恵にあずかる事ができる地位を有している。ということは、指導する人間と使役される人間には不平等な差が厳然として生じている。
あるいは経営の面でもそうであろう。お金を稼ぐ才能が有る人間は会社内では高い地位に居続けられるだろうが、そうではない人間は会社にとっては代わりのきく存在である。つまりいつ職を失うかもしれない不安定な地位であり、トップとの収入の差はとてつもなく大きいであろう。ここにも不平等な差が生じている。
 このような事象に存在しているのは「弱肉強食」という、自然界にごく当たり前に受け入れられている法則である。能力のないものは淘汰され、能力のあるものが恩恵を受け続ける。客観的に見れば、人々は生まれながらにして平等ではない。ある人は生まれながらに重篤な障害を持っているかもしれない。あるいは後天的に身体に障害が残ってしまうこともあるだろう。そのような人間達からすれば、弱肉強食という生き方は受け入れがたい現実である。そして多くの人々も同様にこのような生き方を望んでいるわけではないであろう、いつ自分が弱者側になるのか未知数だからである。それと同時に、人間の感情には抑制というものがある。つまり自分一人が恩恵を受け続けるのは悪いことであるという感情もあるのだ。このような感情から福祉という概念が生じ始め、集団による幸福へと昇華される。つまりみんなが我慢すれば苦しい思いをしている人間が救われる。それでいてみんなが負担を共有すれば、みんなが幸せになれる、とこういう風に考えるのだ。これは上述した動物達の行動様式からすれば奇妙な考え方であろう。飢餓状態に陥ってもなお集団の為に食糧を均等に分け与えることを是とする精神、そして場合によっては一人が食糧を独占し生き残るという選択よりも、全員が全滅する事を選択する強固な共同体意識、平等の体現、集団への帰依。このような生き方が出来る生物は人間ぐらいであり、そして本当に一人だけ命が助かるという選択をするよりも、全員が死ぬという事を選んでしまう人達もいるのである。
 さて、長々と人間の共同体意識、あるいは共感能力により派生した人間の行動様式について書いてみたが、このような行動様式と勝ち負けといった競争理念はどう関係してくるのであろう。私が思うに、私達は共同体という集団意識を持つと同時に、対人における攻撃的、防御的、または瞬間的な気性の粗さ、奮闘の概念を有している。つまり、野生動物のような獲物を狩って食糧を得る、命を狩って自身の命を永らえるという非情な側面を対人においても有している、ということである。
他の動物達とは違い、共感能力や共同体意識に長けた人間達が、何故対人においてこのような闘争の意識が発生してしまったのか。それはやはり、人間という種においてそのような感情は種が高度に繁栄する為には必要なものだったという事だろう。「集団内の幸福のみを体現しよう、自分達とは異なる集団もきっと自分達と同じような同情心を持っているはず」、という感情のみではこの厳しい地上を生き残る事はできない。人と人との集団にのみ帰依していれば、外の世界を知る事はできないし、もっと良い環境を手に入れるチャンスを失ってしまう。もし危機的な状態に陥ってしまった場合、このような共同体意識のままでは現状を打開できず、そのまま衰退し種の存続が危ぶまれるかもしれない。そのような状態を回避するためには共同体意識を解体し、よりよい環境を手に入れ繁栄を謳歌する事を是とするアグレッシブな感情が必要である。それはつまり共感能力や良心という感情を排除した「利益を獲得するためには何でもする」という攻撃的な感情も必要であるという事だ。そしてその、「利益を獲得するためには何でもする」という対象の中に同じ種である人間が含まれている。これはより共同体意識を体現するがゆえに、他の集団を攻撃し自分達の集団のみの繁栄を目指すという事の現れではないかと私は思っている。そしてこのような志向が生じると同時に、他者が築いた富、財産を奪っても良しとする行動に抗するために、人間にはあらかじめ自分達の身を守るという防衛の感情も生じたのではないだろうか。例えば対人における猜疑心、守秘、あるいは攻撃を受けた後も徹底して反撃を思索するという恨みといった人間独自の感情である。
 繰り返し述べるが、私が思うに前述した攻撃的な感情は動物的な本能ではなく、人間が有する共同体意識、共感能力の上に発達し誕生したのではないか、という事である。例えば騙すという犯罪行為が成功するその背景には、良心を持った人間であればそんな事はしないという暗黙の了解がある。他者の共感能力や良心といった感情を利用し、相手がどういう行動を取るか想定し自己の利益が最大となるよう相手を利用する。
このような行動を取る人間達は、人の痛みに共感したり、集団に帰依している人間達にとっては悪魔のような存在ではあるが、別の側面から見ると非常に頼りになる存在ともいえる。世の中が常に法に支配されているとは限らない、無法者達がのさばる社会においては彼等のような利益を得る為にはあらゆる手段を実行する人間達が側にいた方が、同情心に依拠しまごまごと何も行動に移せずに衰弱していく人間達にとっては我が身を救ってくれる英雄のような存在である。
このような同情心から反する形で存在する攻撃的な行動についてより詳しく述べるなら、これは人間の利己的な行動であり、俗世的な利益を追求する合理的な行動でもあり、個人の考えを他者との関わりに関係なく実践するという独断的な行動でもある。つまり、共同体意識、良心にのみ依拠した感情の解体により個人の合理的な行動を取る事が可能となったと言えるのではないだろうか。
私達が生まれる時は通常、親がおり、そして兄弟、姉妹が生まれる事もあるだろう。家族とは血の繋がった共同体であり、この集団はあなたにとっては他の集団とは重要度が大きく違うものだろう。「私は自分の家族よりも他者の家族の方が重要です」などとは普通は言わない。しかしながら、あなたは何時しかこの共同体から生じる意見と、自分の個人的な意見を相対化し、自分で考えて人生を選択するようになる。つまりあなたが生まれ育った家族という共同体は人生において絶対的なものではなく、最終的にはその共同体の重要度は別の物に取って代わられるものとなるかもしれない。そのような原始的な共同体からの脱退という通過儀礼を、普通であれば少年少女期に体験しているのである。私達はその通過儀礼を『反抗期』と呼称している。反抗期は個人のアイデンティティーを確立し、自分の頭で考えて人生を選択するという行動の初期段階を経験する上で重要な機会である。例えば、何となく駄目と言われていた事に反発し実践してしまう。何の考えも無しに嘘をついてしまう。暴力的に物事に当たってしまう。礼儀といったものを無視する。これらは社会という物差しで測れば野蛮であり、もし少年少女期であれば不良と評価される行為であろう。しかしながら、社会が規定した法に従わず行動する、暴力というなりふり構わず自己の思い通りやり通させる行動力、衝動性、計画性の無さ、向こう見ずさ、このような理由なき反抗と闘争心は、個人が独自の考えを持ち、集団に埋没されずに実践するという行動の契機として重要なものではないだろうか。共感能力や良心といった複数の人間達の感情を慮る能力だけでは個人の考えを実践するという行動は導かれないのではないかと思う。これは人類史において致命的なものとなるのは想像に難くない。というのは物事を高度に成し遂げたり昇華させてきた人間達の大半は、自分独自の考えを粘り強く実践し続けてきた人達だからである。その中には良心を欠いたり、普通の人間が持ちうる感情を持っていない人達もいただろう。天才というのは得てして普通とは異なる認識の持ち主だからだ。共感能力から反するような「利益を獲得するためには何でもする」という攻撃的な精神は、このような個人的、独自の考えを何が何でもやり通すという行動力に繋がっているのではと私は考えている。
 ここまでは人間の共同体意識について、さらに人間の反社会的、攻撃的な側面は共同体を土台にして誕生している事を述べた。次にこの攻撃的な感情から競走の概念へと話を展開したい。競争について語る上で勝ち負けについて論ずるのは重要なことである。私達は何故相手を倒したという結果に快楽を感じるのであろうか。私は前述した「独自の考えをやり通す」という所にヒントがあるように思う。そこでまず攻撃的な感情を補完する形で人間の闘争に関する他の二つの感情について述べたい。その二つの感情とは防衛と気性の感情である。
まず防衛について、防衛とは攻撃を受けて反撃するというよりは、常に猜疑心を抱いている感情というのが正確かもしれない。利益を得る為には何でもするという精神の反対の概念、つまり相手は常に何らかの攻撃を仕掛けようと意識している、という事を常に頭に置いている。その根本は猜疑心であり、疑いの心である。何か相手が発言をすると常に反駁するような返し方をする。あるいは攻撃を受けたとこちらが感じ取れば、逆襲をせずにはいられない、恨みに似た感情をその人物に対して抱き、自分の身を守る。
次に説明するのは気性である。攻撃的性格だけでは競争は継続せず、防御的な性格だけでは競争が始まらないであろう。これら二つの感情は競争という概念が生じるにあたって必要な感情ではあるが、もう一つ必要な感情があり、それは気性である。気性はこれら攻撃と防衛の感情の中間に位置し、これらの感情を沸き起こすような概念である。攻撃的意識があろうが、防衛的意識があろうが、自分自身の感情を沸き起こす気性が無ければこれらの感情が強く作動する事は無い。気性が弱いとはつまり対人という存在が希薄なのと同じ事なのだ。気性が弱い人は意見を押し通す、意見を変えないに関係なく、自分から競争の場を離れるような行動を取る。感情を沸き起こすような闘争心の希薄さは集団の中で埋没されずに行動する原動力を欠くのに等しい、このような人間は自身の感情を相手の所作によって変える事は不愉快であり、感情の上げ下げの希薄な環境を求める。そのような環境にいれば、怯えを抱えている自身の感情は守られる。この人間にとっては攻撃的な感情も、防御的な感情も、狭い世界に居れば継続できるかもしれない。しかし大多数の人間達が活動している集団の場においての活動を避け、自らの可能性を放棄してしまう事になるだろう。平常な感情は時として冷静であると捉えられ、知的な印象を持たれるかもしれないが、相手の行動の如何により劇的に感情を変えてしまうというのは、要するにあらゆる環境でも継続的に闘争心を発揮できるという事でもあるのだ。合理的に考えた結果、「無理だ」とか「諦める」という答えを導いても、優れた気性が備わった人間達は頑として、環境を変えよう、敵に立ち向かおうと考えるだろう。こういう非合理的ながらも闘争し続けるというのは人間が厳しい環境で活動するにあたって非常に重要な感情である。
 これらの感情が競争という概念を形成しているように思う。もっと言えば、競争により得た勝利について非常に嬉しい事だと感じるであろう。それはつまり自分自身の行動を変える事なく、同一性を保ち結果を得られた事に対する喜びではないだろうか。私が、独自の考えをやり通すという事に勝利を喜ぶヒントがあるのでは、と述べたのもそういう事である。殆どの人間は現状においては妥協の連続である。社会では自分の意見を押し通したり、何事においても反発するのは、あまり良い性格だとは捉えられない。というのは競争は救済という概念においては、そこまで万人の苦しみを和らげてくれるような強力なものではないからである。あらゆる現状において勝ち続けるというのは現実的ではないし、常に対人を意識し闘争し続けるのは精神や身体を摩耗し続ける事になる。とはいえ、私達は仮想的なルールにおいて、例えばその顕著な例はスポーツであったりボードゲームであったり、あるいは『かくれんぼ』や『じゃんけん』といった遊びにおいては、勝つのは楽しいし競うのは楽しいと感じている。それらはプロの世界を除けば現実にはほとんど寄与しないものであり、自分の感情を満たすものでしかないであろうが、私が思うに、実利とは離れた場においてそれらの物を創作したり人が競争という行為を楽しむのは、前述した通り自身に備わっている原始的な感情、つまり共同体意識から超越し自分自身の考えを実践しやり通し続ける事、他者からの妨害に対して抗し実践し続ける事、さらに対人においてこれらの感情を保ち続ける事を、生きていくのに必要な感情であると潜在的に知っているからではないだろうか。それはつまり人間とは社会上ではどこかに帰属意識を求め、共同体に入れば見知らぬ人間であっても仲良くしていられるが、内面においてはその仲間達に対して対抗意識や勝ち負けといったものを少なからず抱いてしまう。これは自身の考えの独立性や、行動の同一性に快感や幸せといった感情が内在している事の証拠なのである。



 
4 嫉妬


 嫉妬といった妬みの感情は不幸の源泉であると多くの成功体験者が言っている。それは確かにその通りで、妬みの感情は当人に生産性をもたらさないものであり、しいて言えば、咎めている人間を貶める為にその当人は生産的に働くという事ぐらいではないか。しかし不思議に思うのは、なぜ基本的には非生産的な感情である妬みが人間の感情として備わっているのか。成功という概念からは忌避される感情である『嫉妬』は、ここではどういう役割を持っているかについて述べてみたいと思う。
 まず嫉妬という感情の根本的な要因となっているのは何かと考察すると、それは恐らく自省が要因であろう。つまり自身の行動を自粛する抑制的な感情である。抑制的な感情が形成される要因としては、それは社会性であったり他者との円滑な交流の為であろうと思われる。という事はつまりこれは人間の感情の中で高度な部類に属する感情なのだ。それはそうで、このような抑制的な感情は原始的な生活においては忌避すべきものであろう。他者との競争の中で他人を出し抜いて大量の成果物を得る事を忌避したりする、つまり自分が得する事で誰かが損をすると自省的に考えてしまう、あるいは生殖という観点でみれば、異性に対して積極的にならずに受身の体制のままでいてしまうこともあるだろう。見境なく異性に手を出す人間を蛇蝎の如く嫌う人間であれば、欲求に愚直ではない慎み深い人間として評価されるかもしれないが、原始的な生活であれば、このような受け身の体制は自分自身の遺伝情報を残せず途絶えてしまうのではなかろうか。このような自省的な感情というのは、ある規律が既に確立された集団において初めて効果的に機能する感情ではないかと思う。
 考えてみれば抑制という概念の無い人間など、ただの煩悩に忠実な動物である。抑制の反対の概念を簡単に挙げるとすれば、恐らく称賛や自己愛といったものではなかろうか。これらは成功体験を希求する人間にとっては必要な要素ではあるが、自分の行動を省みずに成果ばかりを要求し、自身の非を認めないのは厄介な存在である。よくある事として陰謀論に傾倒する人間は自己の能力を極端に過信するものである。「私が成功しないのは他者が私を貶めているからだ、私の能力を正当に評価しないのは、自分の能力が劣っている事を認めたくないからだ」と自分の非を他人のせいにし、自身の能力を向上する機会を喪失し、成功を得られない理由を他者に求める。このような人間に欠けているのは自分を省みる視点であるのは自明であろう。
 または抑制とは遠い概念といえば、権力的、あるいはプライドの高い人間であろうか。権力志向とは誰かを支配下におきたい欲求であり、全てを自分の手の中でコントロールしたい欲求でもあり、全ては規則通りに事が進められるべきであるという志向である。このような権力的な行動には、「果たして自身の行動が正しいのか」という俯瞰要素は得てして度外視され、他を省みない急速な法の施行を是とする。法に外れたり、歯向かう人間達を粛清してしまう恐ろしい側面を持つ。
 権力志向の人間に顕著な性格としては、異常に責任を意識するというものがある。意外かもしれないが、このような人間は他者に規則の遵守を強制すると同時に、自己もそれを遵守し続けるのである。責任を負うからこそ他者もそれに従うべきだと論理展開し自己のコントロール下に置く事を希求する。そして人々の上位に君臨する自分自身に対して誇りを持ち、プライドが生じるのである。
 これら自己愛的な行動と権力的な行動は、詳細に見比べれば行動様式は異なるものだが、幾ばくかは、他者の視点が欠けているという点においては共通しているのかもしれない。自己抑制的な感情を分析するにあたって、この感情を良い物と想定し、この感情から遠いこれら自己愛、権力的な感情の悪い部分を挙げてみたが、ここから自己抑制という感情についてある事が挙げられると思う。
それは、一つ目、合理的な考え方の否定である。これは前の章とかぶるが、人には得て不得手が生じて当然なのである。ある人Aは狩猟が異常に上手で大量の食糧を得る事ができるとしよう。この人間は自分に関係する人間達、例えば家族にこの食糧を与え、子孫の繁栄に生かそうとする。しかし狩猟により得られる食糧に限りがあるとすれば、Aが狩猟を続ける事により食糧は独占的にその家族にのみ供給される事になる。よって貧富の差が生じる。この例を現代に当てはめるのであれば、富を稼ぐのに長ける人間が、富を独占し、この富を使ってさらに富を生じさせ富を得ようとする。大量にお金がある状態でさらにお金を得ようと工面するのは容易いかもしれないが、お金が少ない状態でお金を得ようとすると難しくなる。よって、富を持つ者と持たざる者に貧富の差が生じ始めるのである。とはいえ、これは前の章で述べた競争による産物であって、自然界には至極当然の法則として成り立っているものである。ここから解るのは自己抑制的な感情は、合理的な個々人の幸福の獲得を忌避しているというものである。
二つ目、自己抑制的な感情は責任を持つという概念が無い。これは逆説的に権力志向の性格から導かれるものである。誰かに命令を下す、誰かを自分の思い通りに行動させるというと、だいぶ身勝手な人間のように感じられるが、集団をある方向に導くにあたって、少数の人間に権限が集中するのはやむを得ないことではある。民主主義といった複数の人間達の意見を反映するのは正確な結論が導かれ、独裁を防ぐのに効果的かもしれないが、何らかの選択の都度に民主主義により代表者を決定するのは相当の時間を消費してしまう。これは国民が多ければ多いほど時間が増える。民主主義を体現しているアメリカ合衆国という国を見ればわかるが、大統領選挙においてアメリカ国民は一年という長い期間をかけて候補者を選別する。本格的に民主主義を体現するのであれば、ここまでの時間をかけるのは妥当だろう。しかし、あえて民主主義の悪い点を挙げるとすれば、一つ目、ポピュリズムに傾倒する面を有していること、つまり大衆の興味を引き付ける宣伝の仕方をし、現状における問題の本質から外れるような言動をする、しかしそれでも大衆から人気を得てしまう点。二つ目は、民主主義は独裁を防ぐあまり、特定の人間が国家元首に在位し続ける事は忌避される事、つまり最上位の権力者には何度もなれないよう当選回数が制限されている、という点である。これは別の側面から見れば、本来ならこの人であればこの状況を解決できるという認識があるにも拘らず、別の人間を選ばなければいけないという状態を引き起こしてしまう。あるいは、前任者の成果を引き継ぐというのはなかなか難しいことである、でなければ二代目の社長に至って会社が倒産してしまった、という状況は減るであろうが、在位年数が決められているからといってある権力者を変える事をせずに、そのまま権力の座に居続けていた方が、上手く回る事もあるだろう。
民主主義についてここまで長々と述べたのは、少数のアッパークラスの人間達が権力を占有し政治を動かし続けるというのは問題点はあるが、それ相応のメリットもあるという事である。ここで強調したいのは、民主主義は候補者を選ぶ人間達に責任が生じる、だからこそ真剣に考えて候補者を選別するのであるが、仮に国民の意見を反映せずに、上位に居座る人間達が独善的に政治を行う国があったとしよう。この権力を独占する人間達の政治理念はこうである、「大衆というのは各々の煩悩に従い利益を追及する愚民である。よって大衆に政治家を選別する権利を与え、政治に介入するやり方は政治腐敗を引き起こす。それよりも国の事を考えている少数のエリート達が政治を行った方が国を良い方向に導く」。国民はこの意見に賛同し、自主的に独裁体制を選んだとしよう。上位の権力者達は次々と改革や法の施行、刑罰といった物事を強化するかもしれないが、さてこの場合の政治を行う事により引き起こされる結果の責任の所在はどこにあるのかというと、もちろん政治を司っている上位の権力者である。仮にこの為政者達によって国が悪い方向へ進んだとすれば、糾弾されるべきは国民ではなく、その為政者達であろう。民主主義により権力を与えられた国民がある一党に全権を委ねていなければ、である。
独善的な命令を下す人間にはそれ相応の責任能力が生じる。権力志向な人間も他人を使役する事に責任が付随する事を理解している、だからこそ重要な事を決定できる上位のポジションに在籍する事を好み、責任をもって命令を下せる自身の立ち位置に対して誇りとプライドを持つのである。となると、このような性格とは程遠い自己抑制的な性格を持つ人間の場合はどうだろうか。
独善的に命令する事によるデメリットにばかり気が集中し、自身が権力を掌握する事による人間関係の悪化に心を配り、明瞭で明快な命令ではなく道徳的観念で相手を諫める、「場の空気を読んで行動するように」。果たしてこの人物に責任という概念は発生するだろうか。恐らく政治が悪い状況になった時、責任を追及すればこのような返事が返ってくるだろう、「自分はそんな命令を下していない。空気でそのような状態になった、自分は悪くない」。
 ここで一つの仮説を挙げてみたいと思う。上述した自己抑制的な性格を持つ人間の責任の所在の認識と関係するが、実は『自己愛的な性格』と『自己抑制的な性格』は自身の行動に対する認識が異なるだけで、客観的に観察してみると、その行動には同じようなものが見られるという事である。
 自己愛的な性格を持つ人間の、自身の行動に対する認識を言葉で表すなら、無根拠な自信であると記せばよいであろう。つまり当人の行動に関して如何なる事象も成功が約束されているという事である。例えば、あなたは歌を歌うのが上手いとしよう。今までの人生において集団の中で歌を歌う機会が何度か訪れたが、その度に周りの人間達から、「あなたはとても歌を歌うのが上手い」と評価を得ていたとしよう。今まで意識した事は無かったが、あなたは常人よりも自分は歌が上手いと認識するようになる。ふとどこかの通りを歩いていると、一般大衆の中から歌が上手い人間をスカウトするオーディションが近くで開かれるという宣伝を目にしたとしよう。
もしあなたが『自己抑制的な性格』をお持ちであれば、こう考えるに違いない。どうせ自分の歌のレベルなんてたかが知れている。仮にオーディションに受かって、今までなろうと思っていなかった歌手への道が開けたとしても、その先には自分よりも遥かに上手い人達が跋扈しているに違いない。そのような人達と競合しながら歌手として生活していける立場を確立するのは無理な事であろう。このようなものに時間を捧げるよりも、もっと現実的に稼げる職業に就く事に時間を捧げた方がよいだろう。
と、あなたは特に意識していなかった『歌手』という職業への道を捨て、生活に溺れるリスクを回避する代わりに、あなたの可能性を一つ消し去ってしまった。
さて、この性格とは反対に、あなたが『自己愛的な性格』であった場合は恐らくこのような行動を取るだろう。これは自分が歌手として成功する絶好のチャンスである。周りの人間達は俺が歌う度に「君は歌が上手い」と言っている。きっと、このオーディションにおいても数多の人間達を差し置いて、とても良い評価を得られるに違いない。このオーディションを契機とし、自分が歌手として世界で成功する道へ駆け上がるのだ。
 前述したように、ここで示されているのは無根拠な自信である。あなたの幼少期時代を思い起こすと、普通の人間よりも少しばかり足が速い子供達数人が存在していたのではないだろうか。子供の頃はその身体能力ゆえに彼等は脚光を浴び、所々でその足の速さが話題にのぼるかもしれない。しかし、身長や体型が成長により変われば、足が早いと評されていた子供達は相対的に普通という評価になったり、今まで足の遅かった子供が飛躍的に足が速くなる事があるかもしれない。足が速いという評価は過去の物となり、ある子供は話題にのぼることが皆無となるかもしれない。
身体能力とは努力の如何により飛躍的に向上するものではなく、元々備わっている資質により能力が決定されるものであろう。同じく歌を歌うという身体表現においても、当人の資質の比重が大きいはずである。周りの人間達が発する「歌が上手い」という発言は、歌手の世界において輝かしい成功を収めることができると保証するものではなく、単なる即物的な感想である。果たしてこのような周りの評価を拠り所とし、簡単に、世界で歌手として活躍するという大それた道を目指すのは如何なものだろうか。しかし、抑制的な性格を持たないあなたはこう考える、「自分の行動は正しい、自分は必ず成功する」。
 ここにある類似性が導かれる。それは『無責任』と『無根拠な自信』は同じ行動様式を引き起こすというものである。もう少し正確に述べれば、『全く根拠の無い自分を貶める発想』と『全く根拠の無い自身の成功の確信』は感情の方向性は違えど、結果的には同じ行動へと帰結する。
ある抑制的な性格を良しとする集団の中で、あなたは仕事をしていると仮定しよう。この集団は上下関係に厳しく、各社員は見たところよく働いているように見える。一見統率のとれた機能集団のように見えるが、前述した例を参照するのであれば、この集団の実態は合理性を欠いた無責任集団である。仮にあなたが上司だった場合、前述したようにあなたは独善的な命令を好まずに遠回しな言い方を好むようになる。ベストな統率形態は、あなたが言わずとも周囲の人間達があなたの意見を忖度して自動的に行動してくれるものである。そうすれば、あなたは強面の表情で画一的に命令を下すという自身の性格とは相反する行動をせずに、心の安寧を保つ事ができる。周りの人間達もあなたに対しては、頭から怒鳴り散らして人をこき使う酷い人間という評価を下す事なく、朗らかな人間としてあなたと仲睦まじい上下関係を構築できるだろう。ではこの場合、上司の意見を忖度しなければならない部下の行動はどうであろうか。
あなたが上記の上司の部下だった場合、あなたは上司の遠回しな言い方から色々な事を補完するようになるだろう。例えば、「お疲れ様」と上司から帰り際に言われる言葉には、「もう仕事を切り上げるのか」という思いが実はあるかもしれない。「適当にやって良いよ」と言われた場合、本当に適当に仕事を処理すると恐らく怒られるだろう。正しく訳すればこうである、「自分のベストを尽くして仕事を処理するように」。「何か良い解決手段は無いか」と聞かれた場合、あなたは自分の意見を言ってはいけない。あなたは上司が欲している意見を考察し、あなたの口からその意見をあなたの意見として言う、「こういう方法があるのですが」。
 このように仕事をこなせばあなたは上司からは好印象を持たれるようになるはずである。上司からの評判が良ければ昇進もあり得る、昇進すれば収入も増える、昇進後に上役と良好なコネを構築できれば顔が利くようになり、さらなるメリットを享受できるようになる。そうあなたは夢想し、上司に言われる前に上司の気持ちを忖度し、能動的に行動するビジネスマンとして今日もその集団の中で働くのである。
この部下の行動は、まるで相手の意志を汲み取るのに長けた超能力者のように見えるが、実際にそう上手く上司が意識下に抱いている「やって欲しいこと」と、自身の行動が合致する事はないであろう。この行動から浮き上がってくるのは、『無根拠な自身の行動の正当化』である。部下であるあなたが「自分の行動は正しい、自分はこう行動するように期待されている」と思っているその行動には厳格な因果性は発生していない。明確に言葉通りにそのような命令がなされていない以上、それは客観的に見ればあなたの身勝手な行動であると評価されざるをえないのである。もし何らかの事故があなたのこのような行動により引き起こされた場合、あなたは素直に自分の非を認めるような気持を抱くだろうか。あなたは責任を追及された時、自分の心情を総括しこう返答するであろう、「自分だってこんな事したくなかった。空気でそうなった。自分は悪くない」。
 このような無責任さは、自己愛的な性格を持つ人間の無根拠な自信とよく似ている。そこに何の命令系統も確たる実績も存在していない。しかし己の頭で考えた結果、最終的には自分の行動は正しいと正当化し能動的に行動する。異なる点はと言えば、前者は集団の中や上下関係といった複数の人間達の間で発生しやすいであろうが、後者は集団よりも個人においてそのような状態になるだろう。『自己抑制的な性格』と『自己愛的な性格』は性格の方向性は違えど自己の行動の正当化という点においては同じなのである。
 嫉妬という感情を理解するにあたってこれら『自己抑制的な性格』と『自己愛的な性格』を比較し考察するのは有意義な事である。冒頭で述べたように、嫉妬という感情は自省から来ている。「自分は不利益な事でも我慢して四の五の言わずに行動してきた。苦労しているのに成功を実感することは無い。にも関わらず苦労していないように見えるあいつは自分と比べて富や名声を手に入れている。何故だ」、恐らくこのような自己抑制的な性格から、他者と自分を比較し、成功している他者に対して嫉妬と敵意を抱くのであろうが、このような行動様式を考察するにあたって、自己抑制的な性格の人間達の、周囲の人間に対する態度や認識を分析する必要があるように思う。以下に記述してみよう。
 ある人間Aは自己抑制的な性格の持ち主である。何かを実行するにあたって己の思いつきに依拠する事はない。行動を起こす前に、それを実行してはいけないという確証を得る為に、あらゆる分野から情報を集める。最終的には友人等の身近な人間達の「それをしたら」という声の後押しにより、それを実行するに至る。Aは真面目な人間である。ただ他者の意見を身代わりに、仕方なくそれをするという、責任を負う事を忌避する体質の人間である。
Aは優柔不断で相手の気持ちを察しようと常に意識する性格から、人見知りな人間であり、しかしながら友人を作る事を希求していたとしよう。このAが心を通わすような人間、あるいは何の支障も無く自然に会話を楽しめる人間とはどんなものかと言えば、Aの自己決定ができない性格から恐らく、Aに対して助言をしたり逆にAの助言を受け入れるような、同じく優柔不断な性格の人間であろうと予測される。助言に対して反抗的で、自分の考えは正しい、あるいは自分の判断がいかに優れているかを雄弁に語る自己愛的な性格の人間は、このAにとっては不愉快な人間として認識されるだろうから、Aとは親密な関係には成りえないだろう。
 この人間達の集団意識は基本的にはこうである。「自分は既に満たされている」、あるいは「外に目を向けると自分よりも苦労している人達がいる。彼等を助ける為にも自分も苦労するべきだ」、とこのように自然に自分自身に対して自粛するような考えを抱く。事あるごとに自省するような気持ちが生まれる為、劣等感を抱いているという感覚がこの集団内では強いかもしれないが、他者が求めずとも自ずと「自分のせいである、自分が悪い」というように全ての要因を自分に紐付けるため、ある意味この集団の自意識は自己愛的な人間達よりも強いのである。ある人間がこの集団の中で、「私は現状に対して不満がある。お金を沢山得たいしこれ以上苦労したくない」と訴えれば、この集団はその人物に対して「あなたはいかに恵まれているか」という風に自分達よりも苦労している人達を持ち出して、この人物を諭すような言動をするだろう。このような集団内の言動を自己愛的な性格の人間達の間にも発生しているのかといえば、私は類似の行動として個性の尊重と、何らかの秘められた才能というものを周囲に啓蒙する事が、それに該当するのではと思う。
 仮に自己愛的な性格の人間Bがいたとして、Bはナルシストな性格であり、他者を引き合いに出して自分を貶めるという事はしない。何らかの決断をする際には特に他者の意見に依拠するという事はしないし、他者から否定的な評価をされても気にせずに実践する。BはAと違って人見知りではない。Aの性向から鑑みるに、Bは特に友達や親密な人間というものを欲しないであろうと思われるかもしれないがそうではない。この人間達にも自己抑制的な人間達と同様、ある性質を他者にも希求し集団を形成するのである。それは、この手の人間は周囲に成功者を固める、もしくは自分を賛美してくれるような、ネガティブな意見を俎上に載せるような事をしない人間達を周囲に固める。
 この人間達の集団意識はこうである。「自分はまだ満たされていない」、あるいは「外部の人間達は自分を正当に評価していない。受けるべき称賛を自分はまだ他者から受けていない」、と根拠の無い自己の成功のイメージを常に抱いている。このイメージを具体的に実現化するために、集団内で自己の成功を高めるような啓蒙活動をお互いにするのである。例えば、自分は他者に属しない、自分にしかない何らかの才能を有している。それは素晴らしいものであり他者から貶されたり、否定的な評価を受けるようなものではない、というふうに。
ある人は身長がとても高く、スポーツにおいて有利に働き、輝かしい成果を残すかもしれない。その身長はその人の個性であり、才能である。それと同じように、身長がとても低い人も個性であり、またそれはかけがえのない才能である。新体操においては身長の低さが有利に働くかもしれない、体重の軽さにより競馬といったレースの騎手、ドライバーとして重宝されるだろう。このように我々には可能性があり、誰にも貶められる事の無い才能を有しているのだ。
 このお互いに励まし、一人一人の成功を称賛し、自尊心を保持し続ける言動は、まるで自己抑制的な性格の人間達の言動とは相反するものに見えるが、この比較から自己愛的な性格の人間達についてある事がわかる。実は自己愛的な性格の人間達は、自己抑制的な性格の人間達と比べて、自意識が希薄なのである。
 自己愛的な性格の人間達の拠り所とするものは、つまるところ自身の成功である。自分は優れている、他者には真似できない才能を有している、他者と話すときは自分の自慢話は当たり前、他者から褒められるのも当然の成り行きである。しかしながら、もし自分の成果、能力が何かのはずみで地に落ちてしまったら?、他者とは異なる才能を表出できなかった場合は?。仮に何らかの輝かしい成功を手に入れたとしても、それは永劫に続くものではないだろう。だからこそ彼等自己愛的な性格の人間達は、成功に執着するあまり常に恐怖に苛まれている。明日は自分は失敗者になるかもしれない、このような成功の感触が消し去られてしまうくらいの不幸に見舞われてしまうかもしれない、誰も自分の事を見向きもしなくなるかもしれない。そのようなネガティブな思考を払拭するように、集団内で自己の成功を願うような啓蒙に邁進するのである。成功に依拠するがゆえに、お互いがお互いを褒めたたえなければいけないほど、彼等の自意識は低いのである。
 このような行動を見ていると、自己抑制的な性格の人間達の行動は一見不幸で生きづらそうだが、ある意味自己愛的な集団からするとユートピアである。別に個人個人が何らかの特異なものを持っていなくても良い。ある人は能力全般が並の人間よりも劣っていたとしよう。他人に提示できる素晴らしい才能をこの人は何も有していない。しかしこの人は孤独ではない。誰かがこの人に対して共感してくれたり、苦しんだりしていれば目を向けてくれる人がいるのである。この人が生きづらくなった時に世間に対して、この人の苦しみを広めてくれる人間達が、自己抑制的な性格の人間達の中から現れる。彼等にはお互いを賛美するような空虚な向上心は必要無い。各個人が生きやすい最低限の環境、空間を保持できるから、生きているだけで自意識が保てるのである。
 この二つの性格を理解するにあたって自意識という言葉が導かれたが、最後に自意識と関連して嫉妬という感情についてまとめてみよう。嫉妬は自己抑制的な性格から端を発するという事を前提で話を進め、自己愛的な性格と比較しながら、それぞれの性格について分析してきた。私はこれらの分析から嫉妬についてこう結論づける。嫉妬とは自己抑制的な性格の隠されていた自意識の表出である。だからこそ醜いのである。お互いがお互いを監視し、他人のスペースに入りこんで己の欲求を満たそうとする輩が現れれば、その輩を諫め、お互いの心地よい環境が維持されるように努める。この認識は集団的であり抑圧的なものである。このような集団内のルールが内面化された人間にとって、ある人間の成功体験は妬みの対象となろう。妬みの対象となる人間は共同体の外に属する人間と認識し、今まで抑えていた自意識をその人間に向けて爆発させるのである。共同体内の慎み深い生活をしている人間達に対しては穏やかな性格を示しながら、そのルールから外れた人間に対して罵倒の言葉を浴びせる様は決して抑制的な人間のそれではないだろう。このような二面性は押さえられていた自意識が醜悪なものとして表出された結果ではないだろうか。
自身の欲求を慎むのは他人にとって救いとなる事はあるだろう。しかし他者の成功を妬むことは他者にも当人にとっても救いとなる事はない。それは明確には、押さえられていた自意識の解放による自身への弁護のようなものではないか。他者を妬み悪口を言う事で自身の性格を正当化する、それでいてその成功者がその後に失敗すれば嬉々として喜ぶ。このような感情に至ってしまうほど集団のルールを内面化し、個人の幸福への追求を抹消してしまうのは不幸な事だと私は思う。



 
5 罪の意識


 善悪を人に説く人間は巷に溢れている。身近な人間を例に出さずとも、大昔から伝わる寓話にはその概念を人に説くような要素が物語上に含まれていたり、歴史上においては善悪を群衆に諭す人間達が数多いただろう。代表的な人物を挙げるとすれば、キリスト教の神の子イエスがそうであろうか。イエスは『隣人愛』をユダヤ教徒達に教授し、共同体外の人間である異邦人を自分のように愛せよと説いた。それは救済の教義であり、そこから何故そうしなければいけないのかという問いに正当なただ一つの答えを出すのは無理な事であるかもしれないが、この教えからは善悪という二値的な概念が誕生している。つまり、異邦人を自分のように愛しないのは悪である。善とは何かと度々語られる事はあるかもしれないが、悪についてはあまり語られる事は少ないのではないか。理由は恐らく人々が自明的に悪いとされる行為を容易に思いつく事ができるから、あえて語る必要性も無い、という感覚があるからだと思われるが、『悪』と評される物事について、そして『善悪』という二値的な論理について考察してみよう。
 『悪』という言葉をここでは分かりやすく『タブー』という言葉に変えて考察してみる事にする。タブーとは禁止や禁忌と理解してよい。なぜ『悪』という言葉をここでは『タブー』として解するのか、その理由として、『善』とされている行為を続けるようにと、歴史上において慣習的にその行為を文明人達は実践してきたであろうが、同時に『悪』と評される行為については、してはならないという『禁止』の面が強調されてきたと思われるからである。つまり『善』については何度も実践する事により、経験則としてどういう物が私達にもたらされるのかという事を体感的に言葉で説明できるかもしれないが、『タブー』については実践してはならないし、考えたり想像するのも忌避すべきだという面が強く出て、何故してはいけないのかと言葉で説明する事が出来ない状態に陥りやすい。このように『善』の概念と『悪』の概念を語るにあたって、この二つの言葉には対蹠的な関係とは言えない意味が含まれている。
例を挙げるなら、「何故人を殺してはいけないのか」という問いは『悪』であり『タブー』である。というのはそれについて考察し、人を殺した結果どういう影響が生じるのかとそこらの人間を実験的に殺した場合、殺された人間の命は元には戻らない。それでいて「命が戻らないから殺してはいけない」と言葉で説明すると、「じゃあ命が元に戻るのなら人を殺しても良いんだね?」という答えに至り、殺しても良い論理が生まれてしまう。それでいて私達は「命を再び元に戻す事が可能であれば、人を殺めても良い」という論理について直ぐに首肯する事はできず、倫理的にこの論理は受け入れてはいけないという感覚が自然に湧いてくる。これらの問答の結論として以下のような言説が自然に導かれる、「駄目な物は駄目である。何故なのか考えてもいけないし実践してはいけない」。このような『禁止』、『禁忌』の概念が『悪』という概念に付随している。
しかし『善』とされるものについては、少なくともこれらとは正反対の概念が付随しているとは限らない。『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』は『善』である。しかし、『許可』、『奨励』の概念はこの教義からは遠いだろう、もしこれらの概念が付随していれば、この教義は『善』としての要素が弱くなる。正しくこの場合の『善』の意味を汲み取るのであれば、それが聖書に書かれている『真理』だからである。だからこの教義は『善』なのである。
 もう少しこういった言葉遊びを続けよう。タブーの意味が含まれている『悪』とは反対の『善』には、慣習的にそれが行われているから、少なくとも長年その行為を続けていて悪い影響を発生させる事が無かったからと、経験則からの判断に依拠する事が多い。前述した例を再び用いるなら、「何故人を殺してはいけないのか」という問いをタブーとするのは『善』、すなわち『真理』である。理由を挙げると、私達人類は生命現象としてこの地球上で生殖し活動している。長い人類史の中で自然に人として生存し、子孫を残すというサイクルを繰り返してきた。自然にこれらの行為を繰り返してきて、私達人類に悪い影響もなく、何となくそれが人間として正しい行為だと感じているので、人類が生殖し繁栄するというのはタブーに該当する行為ではない、と私達は自然に判断している。対して何故人を殺してはいけないのかという考察には、太古から繰り返されてきたこの生活様式を大きく損ねるような要素が含まれている。つまり、このテーマを深く考察する事により、どういう場合人を殺して、どういう場合人を殺すべきではないという風に白黒つけた場合、大量の人間を殺戮しても良いとする論拠が生まれてしまう。例えば戦争時の大量破壊兵器の使用であったり民族浄化がそうであろう。最悪の場合、人類が絶滅する状況へと導きかねないので、このような問いをタブーとすることは『善』であり『真理』である、という風に。
 この『善』と『悪』の概念の関係から、これらの概念の発生の仕方には以下のような過程があると思われる。タブーを最初に思いつく事は恐らく自然な事ではない。タブーを規定する事により『善』とされる物事が定義されるというケースはほぼ無いのではないか。例えばある説によれば、世界中の原始的な部族間の伝承を調べてみると、普遍的に近親相姦をタブーとする説話が含まれているという。つまり両親、子供、兄弟、姉妹等の親族間での性交渉はやってはいけない。このタブーの規定から、それ以外の対象との性交渉は『善』であるという風には決定されるわけではなく、恐らく順序が逆であろう。性衝動が生じるにあたって親族から遠い人間が本能的に性交渉の対象として相応しいと感じるのであるが、身体機能として親族とも性交渉は可能であり子供を作る事が可能である。しかしこのような行為は通常の親族外との婚姻と比べて、親族間に不和を生じさせる。よって通常通り行われてきた親族外との生殖行為を当然の如く『善』とし、近親相姦をタブーとする、というように『善』の規定の後にタブーの規定がされるという流れが自然だと思われる。つまりタブーの誕生とは、人々が漠然とこれは良い、これは何となく続けるべき慣習であるとする『善』の認識があって、その後に発生する。
 『善』を規定する論拠には恐らく一つだけではなく様々なものがある。慣習的に行われてきたから正しいという伝統主義的な要因もあれば、神がそう決めたからという宗教上の教義による要因から、または人に優しく接することは『善』であるというように、自分が人と接してきた経験からこのような行動を人間はするべきであるという経験則からの要因もある。前述の近親相姦をタブーとする例からは、親族外との婚姻は『善』であるというように、比較的自分の遺伝情報から遠い対象と性交渉するよう本能的なものによる要因からの物もあるだろう。今はこれらを捨象し、漠然と人々が良いと認識している事を『善』の定義とする。具体的に言えば、「人には優しく接しよう」だとか「人が嫌がる事をするのはやめよう」など、初めてそのようなルールに触れた時、忌避感や拒絶といった感覚が生じず、理屈や根拠を必要とせずにストレートに受け入れる事が可能な物事を『善』とする。とすると、『罪の意識を持つこと』は『善』の範疇に入るのか。このことを考察するにあたって、罪とタブーとの関係について書いてみる。
 タブーの意味は禁止、禁忌であると説明した。罪とは定義上は規範に反すること、あるいは道徳上での過失などである。という事は、タブーである禁忌を犯す行為は罪、と言葉の定義上はこのような関係になるが、『罪の意識を持つこと』を善と定義した場合、この場合の罪のニュアンスが若干変わる。私はこの場合の罪には自由意志という概念が発生しているように思う。
 自分の行動に自由意志が存在していない状況というのを想像できるだろうか。このような状態を端的に表す言葉として経済学という分野に『神の見えざる手』というものがある。人間は神によって行動が決められている、この先どういう事が発生するのか、あなたが最終的にどういう死に方をするのかも予定されているのだ、という宗教性を帯びた言葉というわけではなく、ここでは単純に人間は合理性(経済活動においては利潤の追求)を持って行動しているので、政治が経済に介入せずとも経済状況は最適化される、という程度のものである。
もっと具体的に説明するなら、例えば誰でも失業というのは嫌なものである、働いている会社が倒産するのも嫌な事であるが、人々が「失業なんて無くなれ」とか「倒産なんか無くなれ」と念じても、市場経済では失業も倒産も必ず発生する。何故なら資本主義経済において、『失業』や『倒産』は必要不可欠な要素だからである。弱い者は淘汰され、強い者だけが生き残るという弱肉強食の世界を是とする資本主義経済においては、もっとも良質な物を提供できる会社が繁栄するのは当然であり、それより劣り何の成果も出せない会社が潰れるのは当然の結果だと受け入れられている。同様に、会社にとって有益な成果を出せる社員が高給を受け取るのは当然であり、それよりも劣る社員が減給や降格を言い渡されたり、クビとなるのは市場経済においては当然の事として認識されている。このような経済では競争を誘発させ、各個人が目的合理的に行動する事を促す。つまりマーケットは最適化され、能力に見合った報酬を受け取り、良い商品、良いサービスが大衆に効率的に行き渡るようになるのだ。
このような過程の中では人間の自由意志というのは殆ど無いであろう。あなたにとってお気に入りで、この人は世界中で歌を歌うのが一番上手いと主観的に評価している歌手がいたとしても、大衆を引き付ける歌手としての最低限の能力がなければ、(当たり前ではあるが)その人は売れないのである。それはリスナーの個人的な思いとか、その歌手の壮大な夢とかは度外視され、単純な需要と供給という経済的な物差しによって、その歌手の商品価値は決まり、大衆への露出がコントロールされ、その人にお金を集中させるべきかどうかを歌手の所属事務所が判断するのである。このような自由競争を生き残りトップとなった歌手が大衆の心を引き付ける能力を持つのは当然であろう。そしてその歌手の下には夢を絶たれ別の職種への転職を余儀なくされた大勢の人間達がいる。
この需要と供給の物差しが支配する世界において夢を成就する為には、自分は成功するという野心を持つと同時に、目的合理的な精神を体得しなければならない。自分の歌の才能がプロの世界では並み以下であれば才能を向上させるために歌の訓練をし続けなければいけない。歌の才能の向上に限界が来れば、別の能力の向上を図るしかない。例えばダンスや演奏などの技能、あるいはルックスなどの見た目などの向上である。歌の能力だけではなく自分の事を認知してもらえる為に、積極的に大衆に対して地道に露出を増やしていくのも必要である。その場合はやりたくない事も自身の宣伝の為にやらざるを得ない場合もあるだろう。これらは「自分が歌手として売れるため、歌手として生計を立てるため」という目的の為に合理的な行動をしているのであって、「私が歌いたいものだけを歌いたい」だとか「その他の技能など興味はない、見た目で判断されるのは歌手としてはおかしい、歌う事以外のものに興味はない」とか「私というありのままの存在を評価してほしい」などという個人の見解は排斥される運命にあるのである。それが『失業』と『破産(または倒産)』を本質とした資本主義経済における目的合理的な行動様式なのである。
 この場合の市場経済に自由意志などは無い、人間の恣意性は排除される。もしこの市場経済から『失業』と『破産』が排斥されれば、それは社会主義経済であり、人間の恣意性を多分に受ける事により市場経済は合理性を失うだろう。それは良質な物を効率よく生産、開発する事が困難な状況に陥る事になるのだが、経済について語るのはこのくらいにして目的合理的という言葉に今は焦点を絞る。
目的合理的な行動を支えているのは何かといえば、徹底した自由意志の排除である。例えば、あなたが子を持った親であり、子供一人を連れて山へ登山をしに遊びに行ったとしよう。山に辿り着き、歩きで登山を続けている最中に、子供が転落し山の斜面へと放り出され、長い距離を転げ落ちてしまった。顔を青ざめ急いで子供の元へと駆け寄ると、全身を打撲し口から血を吐いて意識を失っている子供を発見した。打撲や骨折等で命を失う事は無いと思われるが、もしかしたら内部の器官に何らかの損傷を受けたかもしれない。大事には至らずとも今は病院に連れて行くのが先決だ、とあなたは子供を背負い急いで下山し病院へ向かったとしよう。仮に子供が実は瀕死の状態に陥っていたとした場合、子供の命が助かるかどうかはあなたの行動に懸かっている。つまり頭を働かせて病院への最短のルートをいかに選択できるかにより、子供の生存率が変わる。
この状況下であれば、可愛い我が子であり未来において沢山の可能性を持つ子供の命に対して、あなたの自由意志が介入する機会は少ないだろう。もし転げ落ちたのがあなたで、あなたの子供がパニックを起こし、あなたがどこにいるのか子供が探していた場合、瀕死の状態で気絶しそうなあなたは自分の命を諦めるという選択をするかもしれない。なぜなら自分が転げ落ちた斜面は急で、子供に助けを求めた場合、あなたの声を聞いた子供は無我夢中であなたに駆け寄り、その子も同様に転落する可能性があるからである。子供に救助を頼んで自分の命を救ってもらうか、そのまま声を出さずに気絶して、大人達が救助に来る可能性にかけるか、何れにしろあなたには二つの選択肢が与えられているが、このような選択肢の中から行動を選択できるのは、自分が生きるか死ぬかは自己責任により決められるという認識があるからである。だからあなたはこの状況下で死を選ぶ事ができるし、生きたいと望む事もできる。選択肢があるという事は自分の命に対して自由意志が存在するという事である。
しかし子供が怪我を負った話に戻ると、この場合の子供の命の決定権は他者であるあなたには基本的には存在していない。自分の命をどうするかという責任能力はその子供にしかない。他者でもある子供の命があなたに託された現状においては何とか子供を生かそうとあなたは考えるだろう。よってあなたはその子供が助かるように合理的に病院への最短ルートを捻出し急いで下山するのである。
 上述した例は自己の自由意志の有無にかかわらず、自己の考えを超越した事象による規範および使命、命令により自分の行動が決定されてしまっている場合の例である。この例の場合は人命の救助といった道徳心、または父親としての使命といった家族愛に依る行動様式であり、とある人間の個人的な見解に依るものではない。仮にここで自己の自由意志を子供の命に対して介入させた場合、「子供を助けようと思う」または「子供を助けたいとは思わない」といった選択肢が出現する事になるが、子供の命に対してこのような二択が生じた場合、共同体内の人間達から非難を浴びる事は必至である。後者の選択は父親と大人という立場、という二つの側面から誹りを受ける。さらに前者と後者には前述した「何故人を殺してはいけないのかという問いはタブーである」にも関係してくる。このタブーは裏返せば人の命が奪われるというのは回避すべき事象であるという事を示唆している。よって命が失われそうな人に対して無条件に救いの手を差し伸べるのは当然であり、熟考した結果助けるという行為はこのタブーに近似した行動なので、人の命(ましてや我が子)に対して自己の自由意志を介入するのは人としてするべきではない行動である、と人々は普遍的に考えている。共同体外の人間の命に対してはこの限りではないかもしれないが。
 以上が何らかの規範により自己の自由意志を排除された場合の目的合理的な行動様式だが、他者や共同体から強いられる以外の状況においても自己の自由意志の排除は起こる。というよりも、大部分は自覚せずとも自ずから自分の行動において自由意志を捨ててしまっている状態が多い。例えば前述した歌手として生計を立てるために目的合理的に徹し、行動していた人間がその例である。無自覚に自由意志を捨ててしまうその背景にあるのは、個人における強い成功体験の希求や、称賛を受ける事の渇望がある。他者からの称賛を受ける事に執着する人間は自己愛的な人間を除いて、自由意志の概念が希薄になりがちである。その性格の形成要因には成功しなければ自分は存在意義が無いだとか、失敗を失敗と認識させない歪んだ認知がある。強い自尊心を持っているように見える彼等は一見挫折とは無関係のように見えるが、その実は打たれ弱い繊細な感情を有している。そのような感情を有しながらも自分が働いている場で活躍が持続可能なのは、目的合理的な精神を持って物事を行えば成功は自然と自分に降りかかってくるという事を信奉しているからである。このような人間達は物事に対して総じてポジティブな思考の持ち主であり、自己肯定感が強いだろう。
自己肯定感と目的合理的な行動には関連性がある。成功体験への希求を支えているのは自己肯定感であるが、自由意志の否定には合理性が付随してくる。よって焦燥感を持って「自分は必ず成功する」と息巻いている人は、自由意志がその観念を持っていない人よりも希薄であり、合理性を伴う行動を取り、決して無益な行動を取らないように注意を払っている。
 自由意志の否定と目的合理的な行動について長々と書いたが、ここで『罪の意識を持つこと』についてある事が見えてきたと思う。実は自由意志を否定するにあたって『罪の意識を持つこと』はタブーである。換言すれば、目的合理的な行動、つまり自己肯定感を持って行動する人間にとって『罪の意識を持つこと』は善の範疇には入らない。
 自由意志という概念の無い人間に罪の意識は発生しない。発生しないのだから『罪の意識を持つ』という行為も生まれない。あるいは『罪の意識を持つこと』をタブーとする事により、自己肯定感を保持できるのかもしれない。このプロセスを具体的に言葉で説明するのであれば、例えばとある人間が上司の命令は絶対に従うという主従関係のある会社で働いていたとしよう。この上司の命令に対して抵抗したり、無視をしたりする事はできない。受けた命令は額面通り実行しなければいけない。その代わり、命令を実行した結果発生する全ての責任はその上司が負い、さらに命令を実行し成功した後は高額の報酬を受け取る事ができるとする。
この上司の命令に従う部下はさながらロボットに近い人間である。「一日も休まずに働け」と言われれば毎日労働に勤しみ、逆に「一日も労働するな」と言われれば労働に該当する行為を一切行わない。倫理的に問題がある事も上司の命令の前では絶対に行わなければいけない。「人を百人殺して来い」と言われれば百人の命を殺め、「犬のまねをしろ」と言われれば恥辱を感じながらもそれを実践する。このような状態で働き続けた結果、部下の心情にどのような変化が生じるだろうか。
まず文章からわかる事として一つ目、この部下に自由意志は存在していない。命令には絶対に従う事になっているこの部下と上司は対等な関係ではない。自分の意見を言う機会を与えられず、命令の拒否もできずただもくもくと命令に従う部下に自由意志を体感する機会はないだろう。二つ目、命令に従っている間、この部下には責任能力が発生していない。責任能力が無いとは行動に関して自分自身に問いかける余地が無いという事である。「この行動を起こした結果、自分自身に何が生じるか、それは不都合なことなのか」と考える事が無い。自分自身に問いかける余地が無ければ引き起こされる結果が他者へ波及するか、した場合他者にどのような変化が生じるのかと熟考する機会も無い。最後に三つ目、命令に従っている間は高揚感はあるかもしれない。命令を実行し成功した後は高額の報酬を受け取る事が約束されている。責任能力を追及されずに高額の報酬を受け取れるこのような労働は、考える事が苦手で命令に従うのみの人間にとってはある意味最も好条件な仕事かもしれない。
 さて、ここで上司が部下に対してある妙な命令を下したとしよう。下した命令はこうである、「俺が頭の中で思っている事をやれ」。上司はそう言葉を発した後、何も言わずにただ黙っていたとする。命令を受けて呆然とする部下はこの場合、どう心情が変化するだろうか。
まず上司の頭の中では何が描かれているのか考察する。今まで下された命令から、この上司が思い描いている事を類推し、それを実行しようとするかもしれない。部下は頭を巡らして何をするべきか考えるが、何れにしろこの行動に関して言えるのは、一つ目、前述と同じようにこの部下には自由意志は未だに無い。実行するべき事を考え選ぶのは自由かもしれないが、「俺が頭の中で思っている事をやれ」という命令に従がって行動している以上、この部下には自分の行動に関して自由意志は発生していない。二つ目、部下は自分で考えて行動に移すが、以前と同様に責任能力は発生していない。三つ目、自分が実行している事が上司の頭の中で思い描いている事と一致しているのかわからない以上、高額の報酬を受け取れるかは未知数である、という事は以前のような高揚感を得られるわけにはいかず、この場合は果たして自分の行動が正しいのかどうかと焦燥感が生じる。四つ目、自由意志が無く、リターンを得られるかどうかわからない焦燥感の生じる環境に置かれているこの部下は、目的合理的な行動に徹しようと志向する。自分が取る行動に関して責任は上司が負う事になるが、あてずっぽうな行動をしても自身が損するだけなので、上司の思い描いている事に合致するよう合理的に考え行動を取るはずである。最後に五つ目、目的合理的な行動を取り続ける結果、部下の焦燥感は自己肯定感に変わる。命令に対する拒否権が無い、自由意志が存在しない不平等な主従関係において焦燥感を持ち続けるのは精神衛生上不健全である。しかし「自分が今行っている事は正しい、何故なら合理的に考えた上で行動しているからだ」という風に自己の行動を正当化すれば、そのようなメンタルは払拭でき健全な心持ちでいられる。ポジティブな感情で行動をし続ける事が可能になる。
 さて最後の総まとめとして、「俺が頭の中で思っている事をやれ」という命令下で行動している部下をこのように評する事ができると思う。自己肯定感を持ちながら行動しているこの部下にはやってはいけない事というのは存在していない。何らかの禁止や禁忌の規定を認知出来ないのであれば、罪の概念も無いし、罪の意識を持つことも無いのである。むしろこの自由意志も無く行動している部下にとっては『罪の意識を持つ』という行為はタブーである。実際は自己肯定感を演じつつも、その蔭で発生している焦燥感に苛まれているというシビアな状態で行動しているので、いちいち自身を咎めるような思念が発生する余地など無いはずである。それよりも「自分の行動は正しい」という風に正当化に勤しむだろう。
 自由意志の無い目的合理的な行動には『罪の意識を持つ』という行為が付随しない事を説明した。話を前に戻すとして、ここまで長々と自由意志について記述したのは、『罪の意識を持つこと』を善と定義した場合、『罪』という概念には自由意志が付随してくることを説明したかったからである。一見『自己肯定感を持つこと』と『罪の意識を持つこと』は対蹠的な行為ではないという風に認識されるかもしれないが、自由意志、目的合理的という言葉を用いて記述した上記を読めば、これらは理論的には対蹠的なものだと理解できると思う。もしこれらが両立するのであれば、それはまさしく冒頭に出てきた「異邦人を自分のように愛せよ」という隣人愛の概念へと変遷するのだが(何故なら自分と異邦人という共同体外の存在がいれば、これらは両立するからである)、今回はその事について詳しくは触れない。『罪の意識を持つこと』を善とする事で何故自由意志が発生するか、具体的に述べてみよう。
 何故『罪』に自由意志が付随してくるのかと言うと、人は努力により善い人間になれるという思想が『罪の意識を持つ』という行為に前提としてあるからである。即ちその前提自体に「人は努力によって罪を払拭できる」という人の自由意志の全面的な肯定があるからではあるが、もっと体感的に自由意志の肯定をわかりやすくこの文章から汲み取って説明するなら、「自分は欲求ばかり湧いてきて罪深い人間だなあ」という気づき自体が人間の自由意志の現れである。このように気づきを持った人間は自身の行動を改めたり顧みたりする事があるだろう。自分の行動を俯瞰し、常に罪の意識をもっている人間にとって、ある一人の人間の命令に絶対服従するというのはナンセンスな事である。これは意外に思われる事かもしれない。
「俺の考え方には価値がある、俺の行動は正しいはずだ」という自己肯定感の強い人間の方が、人の命令に対して過剰に従う奴隷のような存在になりやすい。それは前述したロボットに近い人間まさにそれである。基本的には会社を機能集団の場として機能するよう、契約上は部下に対する上司の命令は絶対的であり、この二者の関係は対等ではない。なぜこのような事が自然に成立するのかと言うと、資本主義経済における会社の機能集団化には共同体の解体が絶対に不可欠だからである。つまり一人一人に役割というのがあり、専門的知識を持ち、ある状況において最も適切な対処を提供できる人間の前では、無知な人間の意見は排斥される。当たり前である。この集団においては「年長者に対する無条件の服従」や「とある生まれによる権威者に対する隷属」といった上下関係や、「空気を読んで行動するように」といった共同体内の規範はあってはならないのである。この集団にあるのは個人主義と目的合理的な精神であるが、これらの要素は自己肯定感と深い関係がある。という事は、前述した「俺の考え方には――、俺の行動は――」といった個人の権利に対して執着する人間は意外にも先程の集団内においては上司の命令に対しては服従の体裁を取る。当人の権利を主張するにあたって、一つ目、雇用契約の遵守、二つ目、機能集団としての合理性の遵守(上司の命令の行使もこの一つ)が尊重されるべきであると認識しているからである。
これに対して『罪の意識をもつ』というのは合理性を対象としておらず、人間の観念に依拠したものだと言える。つまりそこから非合理的な共同体が形成されてしまうのだ。仮にこの共同体が労働を志向し会社という形態をとったとしても、この集団は利潤の追求を至上命題とは認識しないだろう。それよりも自由意志の体現として労働を利用してしまう。目的合理的な労働環境の形成には自由意志の排除が必要だと再三に渡って書いたが、このような集団においては自己の自由意志が喪失されるような、上司の命令に対して絶対的に服従しろという環境に対して反抗的態度を取るのは当然である。恐らく命令に従うよう強要する上司に対してこの共同体はこう反論するだろう、「自分は間違っているかもしれないという認識を持ってみてはどうですか」。ここでいう間違いは罪の定義と関連していると思われるが、この共同体にとっては、会社は機能集団であり、それに属する社員は廃棄したり購入して使い続ける会社の備品と同義であるという認識は耐えられないのである。
 さてここで『罪の意識をもつこと』は不幸という感覚の発生要因か改めて考えてみよう。例えば夢をかなえたり成功するのは一般的には幸福に繋がる事と考えられているが、個人の成功体験の希求にとって『罪の意識を持つこと』は恐らくタブーとするべきことで、その意識は夢を成就するのに障壁となりえるかもしれない。自己肯定感を持たずに同じ夢を持つライバル達の中で勝ち続けるというのは至難の業である。であるのなら競争社会においては『罪の意識をもつこと』は不幸の源になる。しかしとある共同体内では楽に夢を成就する事が可能となるかもしれない。例えば「競争というのは人間の間に上下関係を確立する罪深いものである、なので人に客観的な評価や指標を押し付けるのは止めましょう」という世界であれば、苦労を伴わずに夢がかなうかもしれない。誰かが「私は歌手を目指しています」と言い歌を歌う、その歌を聞いた誰かが「お前の歌は下手だ」と言っても、「そんな風に評価を下すのは止めろ、人を傷つける発言をするな」といい、その人の歌手になりたいという自由意志を守り厳しい評価を下した人間を退ける。この世界であればみんなが嫌な思いをせずに笑って歌を公開する事ができる。歌手としての能力の有無が本質的に問われる事は無く、その当人の努力した過程が評価される。上手くいけば大衆に対して自分の歌声を披露するチャンスを得る事ができるかもしれない。とはいえ競争も無く人に対して思い通りに意見できない、予定調和的な世界で受ける評価に果たして価値はあるのだろうか。それよりも弱肉強食の世界で必死に戦って燃え尽きた方が、自分自身に対して納得のできる評価を下せるのではないだろうか。
 『罪の意識をもつこと』は人間が生み出した美徳である。そのロジックには自由意志の肯定と自己肯定感をタブーとする精神がある。万人の自由意志の体現の為に、能力のある人間の主張や権利までをも犠牲にする世界は果たして幸福なのかと私は疑問に思う。



 
6 世間への恐怖


 ある母親は子供にこう教える、「人に迷惑をかけないように生きなさい」。ある父親は子供にこう教える、「一度きりの人生だからやりたいことをやりなさい」。このような模範的な言葉をかける両親に育てられた子供は顎に手を当て、まるでロダンの考える人のポーズでこう思索にふける、「人に迷惑をかけないように生きて、やりたいことができなくなったらどうするのだろう。やりたいことを優先して人に迷惑がかかってしまう場合は、どうすればいいのだろう」。疑問に思った子供は両親に尋ねるが、極端に考えすぎた結果生じる些細な問題だと親達から軽くいなされる。そして尋ねてきた子供に対してまた模範的な回答をする、「全てはほどほどに」、こんな感じに。
しかしながら、成長して世間という枠組みの中を生きてきた大人達であれば、親という属性から離れ、子供に与えるこの親達の助言には、現実を捉えていない不親切さを感じるだろう。それでいて、その助言に疑問を感じた子供にある種の共感を覚える。実際の世間というものは、親達の口から出る体のいい言葉により作られた世界ではなく、子供が夢想する大人達の世界の方がむしろリアリティがある。人に配慮して欲求を抑えている人間達を利用して、自己の利益を最大限にしようと画策する無神経な人間達や、やりたい事をやろうとしている人間達を貶めて、自分がやれない事を正当化する人間達が社会には跋扈している。子供が感じた疑問のように実際の社会は、各々が自分にとってこの行動が正しいという行動を取り続けた結果、様相は複雑化し、その本来の行動により得られる効果というのを喪失し、他人に不利益を与えるばかりか自分自身が自分の言動により不利益を被るという相矛盾する社会となってしまっている。極端に言えば、親達の子供に与える助言はその矛盾の延長にある。他者にとって必要な正しい行動を導いてあげるのではなく、自分にとって正しいと思っている行動をその他者に強制する。強制する理由は自分が正しいという事を手っ取り早く保障する最善の手段だからである。自分と同じ思考や行動を取る人間が多ければ多いほど自分の言動は正しいのだと心の安寧を得る事ができる。人類史を鑑みれば大勢の人間達が実行しているからといってそれが正しいという保証は何もない。正しいという確証を得たければ一度立ち止まって本当にそれは正しいのか検証する必要があるが、ほとんどの人間にはできない。できない理由は立ち止まって考えるというやり方を教わらずにそのまま大人達に行動を植え付けられたから、そして慣習や因習を変える事は恐怖だという感情があるからである。国や社会といった大衆間において生じる問題の再発や解消の困難にはこのような事情がある。
確証の無い行動を支え続けているのは世間に対する恐怖である。大勢の人間達がやっている事に異議を唱えたりはみ出すのは恐怖だ。あるいは知識が豊富な人間に対して反論するには勇気がいる。自分が異端分子と認識され共同体から攻撃を受け、居場所を喪失するかもしれない。それよりも何も考えずにただ大勢の人間達がやっている事に従っていればいい、何も考えずに習った通りの生き方をしていればいい。マジョリティに属していれば楽だし皆の行動に合わせてさえいれば自分の身に危険は及ばない、と、恐怖が自身の行動を正当化し、考える余地というのを奪い、世間を複雑にしている。そのような状態からすれば、上記の子供の素朴な疑問は正しいし、親達の助言よりもずっと価値がある。子供達が大人達と比べてなぜそのような疑問を抱くことが可能かと言えば、彼等はまだ染まっていないまっさらな状態にあるからだ。解らない事をわからないと言え、知らない事を知らないと言える、彼等にはまだ世間がないからそれに対する恐怖もない。しかし育つに従い世間という枠組みに組み込まれるにあたって恐怖を認識するようになるだろう。
今の世界に欠けているのはシンプルに自分を飛び越えた他者に対する貢献ではないか。シンプルゆえにそれを体現するのは難しい、ほとんどの人達が自分というフィルターを通してでしか物事を認知しない。自分にとって大切なものを最優先事項とし、それに関連する物事にのみ興味を持つ。他者を救うという行為においてもこのプロセスは付随する、つまり自分への救済の為に他者を救済するという風に利己的な救済を他者に対して行っている。故に、子供の為ならず自分の為に、自分の行動理念を子供に押し付けるのである。そうすれば親達は救われるからである。
今一度必要とされているのは、上記の子供のように立ち止まって考える事、そして世間という枠組みを超える、つまり恐怖の克服である。そのためには自分自身というのを知る必要がある。殆どの人間が他者に押し付けられた事を自分の考えであると認識している。そのプロセスを理解できれば世間がどのように特定の人間によって都合よく構成されているかがわかる。そして、自分が何故そのような行動を選んだのか、果たしてその行動は自分の本心から生じた物なのか、というように自己を分析し自分を理解できれば、他者も同様に理解する事が可能になる。自分と他者を理解すれば、その二者を包摂するような視点を持つ事ができる。そうなれば本心から利他的な行動を取る事ができるだろう。子供に対して自身の行動を押し付けるのではなく、子供にとって自分の考えが不幸を呼ぶのであれば、自身の考えを退ける、そういう事が可能になる。「立ち止まって自分の頭で考えなさい、あなたがどのような答えを導こうが、私達はあなたを愛します」、こう子供に対して言えるのが親の本当の愛情ではないだろうか。
 世間に対して恐怖を感じるのは、世間を知らないからではなく自分を知らないからである。自分の頭で考えて、自分の行動を明晰化しないから自身の行動に不自由な感情を抱く。「他者の行動に対して無性にイライラしてしまい暴れてしまった」、「自分を貶めるつもりは無いのに他者に対して劣等感を感じ、能動的に行動できない」、このような行動に至る原因を特定できなければ自由な思考はできない。不自由な思考から世間を見回して得られる感情は恐怖である。「他人がどういう感情を抱いているのかわからないから怖い」、「自分自身ですら自分の事がわからないのに、他人が自分をどう思っているのか異様に気になり、恐怖に苛まれる」、自分に拘わるのは自身の行動理念の根本を知らないからである、それが遠因となって他者への恐怖となり、大局的には世間への恐怖となる。そして恐怖を解消するために何も考えずに植え付けられた行動を繰り返し、他者にストレスをぶつける。この繰り返しにより不自由な感情と恐怖は増幅され、最終的には孤立し不幸のどん底に陥る。その先に待ち受けているのは生きる事に対する絶望である。と長々と恐怖を煽るような過剰な文章を書いたが、このような生きにくい生き方を少しでも俯瞰できるように、以下にどのようなタイプの性格が世間において恐怖を感じるのか、私が知りうる限りのサンプルを書いてみようと思う。
 一つ目は依存的な性格を持つ人間である。このタイプの人は母性的な性質を持ち、人間間において仲間意識を持っている。もう少し具体的に書けば、他人に対する共感能力というのをこの人達は重要視している。他人がめそめそ泣いていれば、側に駆け寄り、理由はどうあれ自分も共に泣いて悲しみを分かち合う。他人が喜んでいれば、まるで自分の事のようにその人と一緒になって喜ぶ。ある集団が落ち込み空気が悪くなったとしても、この人の言動により周囲の人間達は明るい表情になり、自然と笑みがこぼれる。あまり物事を深く考えるのは得意ではないかもしれないが、でも何をすれば人々が楽しいという感情が湧いてくるのか何となくわかる。優しいし誰とでもなじめるので異性からはモテるが、本人は内心ではしっかり「この人は自分の好みのタイプではない」と分別を付けている。誰とでも仲良くはなれるが、誰でも恋人になれるわけではない。魅力があるので結婚は基本的には早婚である。押しに弱いため配偶者となる異性の性格は積極的で攻撃的な人が多い。職業としては看護師といった人の世話をする職を好む事が多い。肉体労働か、人に指図されるような役職を好む傾向がある。というのは優しすぎて人に命令したり罰則を与えるという事が苦手だからである。あるいはムードメーカー的な役割を好むので、人に嫌われやすかったり、責任や計画といった物事を負わされる上位の役職を忌避し、使われる側の労働者達と深く考えずにおちゃらけたりするのが性に合っていると思っているのかもしれない。
このタイプの特有の戦略として「心からの感謝」というのがある。例えばとある車の修理工がいたとしよう。仕事の休日中に、ある道路を車で運転中、路肩に車を止めて困り果てている家族連れを目撃した。家族の父親は頭を抱えて車の故障トラブルの解決方法を捻出しようと、右往左往している。休日中である修理工は苦々しい顔をしながらも、困り果てた家族連れを見捨てる事は出来ず、何か自分が力になれるかもしれないと家族連れの方へ車を止め、その家族の車のトラブルの原因の調査を申し出る。幸運な事に簡易的な処置により車は起動した。父親は何度も頭を下げては「ありがとうございます、ありがとうございます」と修理工に感謝を述べた。自分が出来る範囲の事をしただけで、ここまで喜んでくれるのかと父親の本心から来る感謝の気持ちに心を打たれて、「念の為うちの会社の社員に車を運んで点検するよう依頼しますから、今日は私の車で御家族をお送りします」、と家族を送迎し、全面的に車の修理に携わる事になった。
このケースで分かるのは、この家族の父親は車の諸々のトラブルを自力で解決しなければいけなかった所を、丹念に感謝の言葉を述べるだけでその全ての問題が処理されたという事である。修理工は嫌々ながらも簡易的に修理の作業を行っていたかもしれないが、父親の感謝の気持ちにより、「たったこれだけでこんなに喜んでもらえて、自分の力が助けになってよかった」、とさらに家族に手を貸すようになる。父親の場合は、「感謝するだけで諸々の問題を処理してくれるなんて、この人はなんて良い人なんだろう」、と得をしたという感覚を得る。このように、このタイプの人間達の心からの感謝の表明により人々は気持ちが良くなり、その人達の為に労力を提供しようと意気込む。感謝の気持ちを表明した人間側は言葉を述べるだけで諸々の作業を省く事ができ、気づけば自分達の為に何故か周囲の人間達が好き好んで労力を割いているという不平等な関係が構成される。
依存的な性格の人間の性質をあらかた書いたが、ではこの人達にとっての恐怖とは何かというと、答えは単純で依存できる人間がいない事がこの人達にとっての恐怖である。このタイプの人は共感能力をもって人と接し、人生において生じる障壁を上述の車のトラブル同様になんとかこの能力で突破しようとする。しかし他者に共感するが故に、他者を傷つけてでも己の利益を優先するという事ができない。このタイプの人間が想像する最も依存に適した人物は、利益第一主義で人をこき使う事に何の感情も湧かない冷酷な人間である。そのような人間達にこのタイプの性格の人達は従属しがちだが、暴力的な仕打ちを受けたり、重労働を強制され一方的に貢ぐような関係になっても依存関係の継続を望む事が多い。虐げられるよりは、そのような人間達から離れる方が恐怖だと認識しているからである。
 二つ目は日常的に自分の空想に心酔してしまう人達である。これは具体的に言えば、事あるごとに周囲の事象に関係性を構築し、自身の頭の中でこねくり回して悦楽に浸ったり、とある人物の歴史を自分に当てはめ、頭の中でさながら主人公の如くストーリーを体感している人間という事になる。自分の考えに浸り、自分の好きな事ができる時間を確保する事を優先しているので、個人主義の性質がある。
このタイプの性格の人達は一つ目に紹介した依存的な性格の人達と真逆の人間である。もし他者に対する共感能力に重きを置いていた場合、己の空想に浸るという行為は少なくなるはずである。このタイプの人達にとって他者の観念や感情や感覚といった当人が体感している情報よりも、己の五感により創造される情報全てが重要であって、他者に気を配るのは苦手な行為に該当する。そのため周囲の人間からは他者に関心を持たない冷たい人という評価を受けがちである。
このタイプの人達は、端的に言えば変人である。親族を除いて親しい間柄の人間は少なく、他者に関心を示さないので外部からの評価を気にしない。体裁に無頓着なため、ファッションや仕草には独特のものを有している。あてもなく方々を旅し、「自分を楽しませてくれる何かが外の世界にあるはずだ」、と、一定の場所に留まる事を毛嫌いする。このタイプの一部の人間は継続して創作活動を行う事があるかもしれないが、頭の中で描いている事を作品として形にしようとするのにはそれ相応のエネルギーが必要なので、着想を得るたびに何かを作ろうとするが面倒臭がって再び空想に耽るという事を繰り返す。その為あまり生産性が高い人間とは言えず、怠け者で仕事に精を出す事に興味を持たない。他人同様に異性に強く関心を持つという事は無いが、結婚を忌避するわけでは無い。しかし配偶者との年齢差が親子程はなれていたりと奇抜な結婚をする。
この人達の強みは世俗や社会といった大衆に迎合した価値観に依存しない自由な想像力である。人が何かを創作するにあたって大衆受けや他者からの称賛を意識する事があるが、この人達は独自の視点でもって創作活動をする。この類の強みは、大衆には受けるが全て過去の偉人や自分の人生の中で影響を受けた物の真似事でしかない、オリジナリティを提示できないクリエーターにとっては欲しくてたまらない才能ではある。専門的知識を積めば、どうすれば大衆に受けるかを客観的に把握できるかもしれないが、大衆に受ける作品が何百年、何千年も評価されるマスターピースになるわけではない。歴史に残る作品は一個人の人生観を超越した、普遍的な価値観を提示した物だと思われるが、このタイプの性格の人達は関係念慮により様々な事象を関連付けて、独自の発想により作品を創作するので、運が良ければ歴史に残る作品を作る事があるかもしれない。
想像力が強みであると書いたが、実はその想像力はこの人達にとっての恐怖でもある。あまりに想像力が豊かで何事にも関係性を紐付けるので、他人のみならず自分自身をも騙してしまう。自分の行為である事が起こってしまったといった確証の無いものや、自分は攻撃を受けているといった被害妄想等である。自分の創造性を掻き消すような、「疑う」という行為はこの人達にとっては唾棄すべきものかもしれないが、そうであるがゆえに他人にいいように操られたり自分自身を傷つけてしまう。自分自身を守る為には、自分を制御してくれる、何事にも猜疑心を抱いている人物が側にいると良いが、そのような人物がいない場合はこの人にとって周りの全ての言動が恐怖となるだろう。
 三つ目は衝動的に己の利益の為に動く人達である。この人達の特徴として無計画で無責任で攻撃的というのが挙げられる。一般大衆が守る規範や道徳といったモラル等を無視し、己が得をするのであれば暴力も厭わない。後先考えない向こう見ずさがある。計画を立てずに動くので大局的な視点が持てない。時には暴力といった手段によって解決を図るので長期的に利益を得るということを考慮できない。この人達の即行動し、利益に愚直に従い法意識が欠けた姿勢は、全く頼れる存在がいなく、未知な世界においては生きるのに有効な要素かもしれないが、法や政治、経済や外交といった国民が効率よく生活する事を基盤とした現代社会においては、彼等は反社会的な存在として認識され嫌われる。行動や見た目から闘争本能が強いように見受けられるが、守るべき規範意識の概念が薄いため、継続して行動するという事が苦手である。これはつまり、勇ましく前進し相手から搾取やお金を貪ろうと志向するが、一旦抵抗や攻撃等を受けると彼等は意外にも簡単に折れて闘争本能が消失してしまう。自分が設けた行動様式を守る、倫理観をもってルールを貫き通す事が出来ないから、行動指針を継続して保つ事が出来ないのである。さらに責任能力が無い事から指導者には向いていない。自分自身の安全性や命といったものには時には無頓着になる。他人のみならず自分の命を考慮した行動の取れない無責任さ、計画を立てる事が出来ない事から指導者には不向きである。
この人達の強みは己の意見を何としても実行させる強引さにある。人を傷つける意見や発言はしたくない、あるいは争うのはやめて皆仲良くしよう、という優しい性格であればこの厳しい世界を生き抜くのに大分苦労するだろう。何も傷つけずに生きていたいと願うのであれば、食べる為に動物を屠るといったことや、全滅を免れる為に他の共同体を襲うといった闘争意欲は生まれないのである。世の中は不条理で予期せぬ出来事が度々私達を襲う。そういう緊急時の状態においては、彼等の強引に事を進め、有効な解決手段があればそれを何としてでも押し通して実行させるという行動力は時には大勢の人間達を救う事にもなる。良心の呵責に苛まれる事なく、己の利益の為に即座に行動できるのがこの人達の強みである。
この人達にとっての恐怖とは大局観の無さや無責任からくる自分自身の言動だろう。最低限度の自分の身の安全に気を配る能力が無ければ、他者の身の安全の為にあれこれ工面する事が出来ない。このような危なっかしい人間の下に大勢の人間が集まり信頼感を持って協働する事はなく、彼等の人間関係には人望というものが希薄であろう。集まるとすれば、それはただ暴れたいだけか、どこにも行き場所の無い人間が最終的に行きついたといった消極的な理由により形成された集団である。楽をして搾取するやり方に固執したり即物的な利益の獲得にのみ依拠していると、大規模で長期的な計画を立てられなかったり、何百年も続く信念を持った集団の形成といった事が困難になる。実は社会といった大勢の人間達が信頼感を持って共同で作業を営む場を継続して存立させるには、個人やお互いの利益といった即物的な価値観だけでは無理なのである。利害や利益といった即物的なものではなく、普遍的な価値観を共有し、それを命を賭してでも守護するといった信念が無ければ計画性も責任感も生じない。自分を飛び越えた事象に対して信念が生じなければ、他人に対して約束や決まり事を守るといった社会の基本的な作法も出来なくなる。彼等は他人の感情を無視して己の利益の獲得に没頭するため、大勢の人間が協力して良い暮らしを達成するといった国や社会においては、最終的には社会性の無い人間と評され受ける利益が一般大衆のそれよりも減る。このように自分自身を律する事が出来ない自己の言動が彼等にとっての恐怖である。
 四つ目は絶対に他人を信じない性格の人達である。彼等の全身を覆っているのは猜疑心であり、相手と応答する度に「この人は自分を陥れる何らかの工作をしているのでは」と疑う。それは例えば騙りに対する防衛意識だったり、あるいは何らかのミスにより自分も被害を被ってしまうといった意図しない被害に対する防衛でもある。性格は頑固でありこちらが言葉を放つたびに反論は必至である。「何故そうなるのですか」、「どういう理屈でそのような答えが導かれるのですか」と確認が取れなければ相手の言う通りには従わない。この人達には自分の認知がいきわたらない事象でも、相手の言う事をまず信じようという行動は有りえないのである。
この融通性の無さは配偶者にとって非常にストレスな感情を引き起こさせる。配偶者の言葉一つ一つを疑い、確証を得るまでこの性格の人達は納得しない。例えば、浮気を疑えば配偶者は如何に自分を騙して裏で浮気相手とセックスに興じているか妄想し猛烈に憤り、配偶者にその感情をぶつける。最終的には心の安寧を得る為に配偶者の行動全てを自分の手中に置くといった行動に出る。
この人達の性質を簡単に述べれば現実主義と言えるかもしれない。人々が信じるような迷信をこの人達は断固信じないし、そのような妄言に簡単に取りつかれる人間を学の無い人達と切り捨てるかもしれない。空想や非現実的な世界に没頭する事に楽しみを見出す人間に対して、理解不能であるという感想を恐らく抱くだろう。この性格の人達にとっては現実の自分が置かれている立場が主な関心事であり、自分が不利益を被っているとか、相手が自分に意図的に何らかの攻撃をしかけているとか、どうやって受けた被害を倍にして返すかといった物事に執着している。
この人達の強みは不屈の精神である。つまり、どんなに被害を被ろうが、徹底的に叩き潰されようが、絶対に自分の言動を曲げずに抵抗する。日頃心が折れそうな厳しい環境に身を投じている人間であれば、この精神がいかに行動を継続するにあたって重要な要素かわかるだろう。他人からの応酬により簡単に意見を取り下げたり、気を落として相手の言う通りに従っていては目的を達成するのは困難にならざるをえない。特に競争の激しい業界でのライバル達の言動にいちいち狼狽していては、夢の成就は難しい物になる。
この強みが特に生かされるのは、自分の立場が社会的に抹殺されたような状況の時だろう。例えば無実の罪で裁判にかけられ、世論が自分の事を犯人であると確信している時である。裁判で提示される証拠は全て自分が犯人であると示唆している、それでいてマスコミといった世論は自分に敵対的、このような味方のいない状況の中で自分の無実を主張し続けるというのは精神的にかなりのストレスが伴う。並大抵の人間であれば楽になりたいという感情から、軽い刑罰になるよう努め、判決を受け入れるかもしれない。しかしこの性格の人達は自分の意見を曲げず、死ぬまで頑として戦い続けるのである。
この人達にとっての恐怖は自分が被害を受ける事である。それは他人を簡単に信じる事が出来ずに裏切りを念頭に置いた言動や、事あるごとに騙りを意識する防衛意識から覗い知れる。恐怖を解消するには権力といった他者をコントロールする術や監視といったものが必要になるため、権力志向になりがちである。しかしながら、仮に政治の場で活躍する機会を得られたとしても何らかの政策を提示し物事に対して革新的に行動する人間にはならず、もっぱら統制に意欲を注ぐだろう。この性格の人達は防衛本能や復讐心といった感情は強いが、己の利益の追求や、提言し自己の意見を推し進めるといった積極性は無いからである。
 最後に紹介するのは絶え間なく感情が変化する性格の人達である。この人達の感情には中間やグラデーションのような急速に変化せずに徐々に適切な感情へと変化するといった緩慢な動作は出来ず、1か0といった極端に境界がはっきりとした感情間を行ったり来たりする。当人はそのような感情の変化は疲労とストレスと対人面において自身に不利益をもたらすと理解しているが、直す事ができずにこのような感情表現を繰り返す。
この性格の人達にとって安定感というのは苦痛である。例えば、この性格の持ち主Aがある人Bを好きになったとしよう。Bに気に入られるように全力をかけてAは自身のスキルを磨いたり、自分が好意の対象となるよう積極的にアプローチをする。ターゲットとなっているBは「そこまで自分はこの人にとって特別なのか」と、Aの好意を感じ取りお付き合いを申し込んだとしよう。Aは有頂天になり、まるで幸せの絶頂期にいるような感覚でBと接する。しかし時間が経ってAの感情にある変化が訪れる。自分が全身全霊をかけてBの恋人になるよう奮闘していたが、いざ付き合ってみると自分が想像していたイメージとのギャップに次第に目がいくようになる。自分にとって高望みであり、付き合えればこれ以上の幸せは無いという感覚をかつては抱いていたが、そのような高望みをAは叶え、今隣にその思い人がいる。念願適った今の状態は自分が抱いていた感覚と同等のものではなかった。そう感じ始めたAはやっと手に入れたその環境を何の価値も無いように手から投げ捨てる。Bに冷たい態度を取りAはBから離れ、別の異性に接近し始める。Bには何の落ち度もないが、優しいBは「自分はAの心を満たすような存在ではなかったのだ」と自分から離れたAの心情を察し、自分はふられたと解釈し自身もAから離れる。Bが自分から離れようとしている事を知ったAは急に狼狽し、まるでBの恋人になれるよう奮闘していた状態を思い起こしたように、あわてて泣きながらBに復縁を申し出る。BはAの気持ちを疑いながらも、優しさからAの取った行動を許し復縁を受け入れる。しかし時間が経って、またAはBの優しさをスポイルするかのように別の異性と関係を持とうと遊びに出掛ける。というように、「Bが側にいないと生きていけない自分」と「Bは自分にとって無価値な存在である」という極端な感覚をAは状況により行ったり来たりしている。Bに対する気持ちを恒常的に保つ為に、「自分の気持ち次第でBに対する評価は変わる」とAは自分に諭すことができない。Aにとって中間的な感情を持つ事は難しく、極端に理想化し、極端に価値を貶めるのがAの性格だからである。
この性格の人達の強みは対人面における多彩な感情表現と積極性だろう。世の中には人と交わるさいに自分の感情を変化させる事に苦痛を感じている人達がいる。この人達にとってご機嫌取りの為に思ってもいない事を他者に伝えるのは、自分がふりをしているようで苦痛なのである。本心から出た言葉は自分そのものであり、嘘偽りの言葉は自分でない誰かから出た言葉のようで気持ち悪い。ふりをして他人から好かれるくらいなら、他人から離れて本心のままで生きていたい、とこの人達は考えるのである。この人達からすると、感情が目まぐるしく変わり、負の影響を与えるのかは知らないが、他者と多彩な交友を持つであろうAの感覚は羨ましい物に見えるかもしれない。自分の感情を変えるのが苦痛であるとは、言い換えれば対人に関して臆病な性質を持っていると言える。この人達は変わる事が無い感情を守るがゆえに、一般大衆が人と交わって手に入れる事ができる機会を大幅に損失する事になるだろう。感情が変わる事に価値を置くとは対人面やあらゆる状況において、自分が取得可能なチャンスを積極的にものにするという事なのである。
さてこの性格の人達にとっての恐怖は何かと言えば、それは変わらない平坦な感情を持つ事である。それは誰でもいいから自分に構ってほしい、ずっと側に他人がいてほしいという事をこの性格の人達は希求している事を示唆している。離れれば離れる程、愛しい感情が湧き起こったり理想の相手として相手をこの上なく持ち上げるのは、自分が異性を常に求め続けるよう自分に行動を強いている事の現れである。それでいて恋人同士になると、理想化からの無価値化といった相手の心情を考慮しない関係の放棄により、この性格の人達の恋愛観には異性を自分が捨てる、嫌うという行動がセットで入っている。異性を傷つけたり離れる事により、再度自分はその異性に恋愛観を抱く事ができる。あるいは異性はこの性格の人達を許し、自分も関係の改善を図ろうとより関係性を意識するかもしれない。この繰り返しによりお互いが常に側にいるように求め続けるといったルーチンワークが完成する。それはこの性格の人達が異性の心情や関係よりも、求めるという行動に重きを置いている事を意味している。
 さて最後にこの章のまとめとしてある事を伝えたい。性格のサンプルを羅列し、まるで病気のリストを並べ、「この病状の人は日常的にこういった恐怖を抱え、生きるのに苦労する事になります」といった印象を与えたかもしれない。あるいはここに書かれていなかった性格の人間も、「自分も性格の中に生きにくくしている要素を持っているはずだ」と何らかの不安を覚えたかもしれない。性格といった要素から永久的に自分は恐怖に苛まれる事になると理解したかもしれないが、それは間違いである。まず知って欲しいことは自分は望めば変われる事、人というのは当人がなりたい性格に変わる事ができる、という事である。他人に植え付けられた考え方を自分の考え方であると誤認していると書いたのもそれだ。自分の性格に嫌悪を抱いている、もっと幸せになりたいのに自分の性格がそれを難しくしていると感じているのであれば、それはあなたが望んだ性格ではないし、強制的にそのように育てられたか、幼少期の環境が原因で運悪くそうなってしまったという可能性がある。自分の性格が自分を不幸にしていると理解しているのであれば、そんなものさっさと捨てて変えればいい。自分を不幸にする性格は他人の為に生きる為にあなたが選んだ仮面のようなもので、その影で本心は傷つけられている。だからこそ苦しいし、自分とは何か、生きる意味とは何かを自分自身に一生懸命問い続けている。日常的に自分の意志で自分の人生を選択しているといった感覚があれば、例え酷い目に遭おうと自分は不幸だと感じないはずである。何故ならそこには自分がいて自分の頭で考えて自分の人生を生きているから、だから振り返らずに前を向いて生きていけるのである。しかしながら不幸を感じている人は過去を振り返り、「ああすればよかった、こうすればよかった」と自分の行動を悔いる。自己責任により自分の人生を選ぶといった感覚が希薄だから、他人の思考により自分の人生を歩んでいると体感しているからこのような感情が湧いてくる。自分の性格により自分が苦しんでいるのであれば、そんな性格は捨てればいい。自分に不幸をもたらす性格など何の価値も無いのだから。
自分自身を変えるにはまず自分を知る事、そして人生における一瞬一瞬を真剣に生きるという覚悟を持つ事。その一瞬に他者の観念が入り込む余地はない。全ては自己決定により自分の人生を決める、そういう感覚を持てば「自分は不幸である」という感情は湧いてこないであろう。



 
贖罪


 まず初めに一言、ラッセルさんごめんなさい(お辞儀)。ラッセルの著書を読んでいる人ならもうとっくに気づいていたでしょうが、この本はバートランド・ラッセル著の『The Conquest of Hapiness(幸福論。以下幸福論と記述)』のパロディ本です。通常であれば、『幸福論』を訳した本では巻末で解説という章を設けて、『幸福論』の解説と著作者であるラッセルの生涯を記述するでしょうが、それら詳しい解説はちゃんとした翻訳者が書いた翻訳本に任せるとして、ここでは『解説』ならぬ『贖罪』と称して、最初に簡単なバートランド・ラッセルの生涯の説明と、なぜ『幸福論』のパロディ本を書いたのかという至極勝手な動機の説明と、最後に翻訳本で語られる『幸福論』の解説とは違う別の視点、つまりパロディ本を書いてみてわかる『幸福論』についての解説をしてみたいと思います。改めてお詫びを、ラッセルさんごめんなさい(お辞儀)。
 以下はラッセルの生涯についての簡単な説明です。バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell)は、一八七二年五月十八日英国の貴族の家庭に生まれました。十八歳にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学し数学を専攻します。二十二歳で同大学卒業。二十三歳にドイツを二度訪問し翌年に『ドイツ社会主義』を処女出版。さらにその翌年に『幾何学の基礎理論』を出版。二十七歳から同大学講師となり以後同大学で教壇に立つ事になります。翌年に『ライプニッツの哲学』を出版。さらに三年後『数学基礎論』を出版。三十五歳に英国国会の下院議員に立候補しますが落選。その三年後、『プリンキピア・マテマティカ』第一巻を出版。さらに年をおって第二巻、第三巻が出版されます。四十二歳の頃、第一次世界大戦が勃発し反戦運動に参加するようになります。四十四歳に平和運動に熱中した影響でケンブリッジ大学を解任され、さらに四十六歳に六カ月間の投獄となります。四十七歳にケンブリッジ大学に復帰、その翌年にロシアへ旅行し『ボルシェビズムの実践と理論』を出版します。五十八歳に『幸福論』を出版。五十九歳に兄の死去にともなって伯爵位を継承。六十六歳に家族と共に渡米し六年間アメリカで生活します。七十一歳に英国に帰国。七十三歳に『西洋哲学史』を出版。七十七歳に英国最高の栄誉であるメリット勲章を授与されます。七十八歳に一九五〇年度ノーベル文学賞を受賞。八十歳に『変わりゆく世界への新しい希望』を出版。八十六歳に核兵器撤廃運動を展開、その翌年に『西洋の知恵』を出版します。八十九歳に核基地や米軍基地前にて坐り込み抗議デモを行います。この年に『人類に未来はあるか』を出版。九十二歳に米国のベトナム侵略に対して抗議運動を展開。九十五歳に『ベトナムの戦争犯罪』を出版。さらに『ラッセル自叙伝』第一巻を出版。つづいて第二巻、第三巻が年をおって出版されます。一九七〇年二月二日英国で死去。九十七歳という一世紀近くの生涯をとじました。
 さて上述から解る通り、大著『プリンキピア・マテマティカ』を著述し、数学者として著名であるラッセルは五十八歳に人間の普遍的なテーマを扱ったであろう『幸福論』を執筆、出版するのですが、なぜ自分が『幸福論』のパロディ本である『幸せを呼ぶ法則』を書いたのかというと、一つは「大上段で幸福を語っているわりには、そんなに大したこと書かれていないよね」という『幸福論』読後になめた感想を抱いた事と、「もし『幸福論』と同程度の質の本を書く事ができれば、自分も哲学者ラッセル程度の知性を持ち合わせていることにはなるのでは」と、自分がどれほどこのテーマに関して書ける事ができるのか、試してみたくなったというのが主な理由です。自分は哲学を専門的に受講した事もなければ、偉そうに一般大衆に幸福を語る程には年齢を重ねているわけでもないのですが、この本を出版する前に『不思議の国のアリス』の翻訳本を出版し、「翻訳というのは翻訳者の感性に多分に依拠しているから、もはや翻訳というよりは創作に近いのでは」という感想を得ていて、それで哲学的な素養は並で経験も一般人と何も変わらない自分がラッセルの『幸福論』のように名前を前面に出して幸福について大いに語っても、「だから何」以上の感想を得られないし、仮に自分が見た事も聞いたこともない人が幸福について語った本を発見した場合、「読むのは時間の無駄になりそう」という感想以外を持つことは無いだろうし、そうであれば翻訳という体裁で幸福について語ってみれば、一応の見栄えのする本に見えるかもしれない、説得力があるように感じるかもしれない。と思い、パーットヤラント・ラッセルという架空の人物を原著者とし、翻訳本という体裁で『幸せを呼ぶ法則』を執筆、出版してみました。
 パロディ本を書いてみての『幸福論』の感想は、この『幸福論』はキリスト教のある側面を批判する要素が多々感じられる、というものです。それは例えば「自己犠牲」だとか「罪の意識」という風にそれらを幸福において負の要素として扱っているように感じました。しかしながらキリスト教を否定的に扱っているわけではなく、例えば自己肯定だとか自尊心を持つだとか、そういった個人主義的な物、あるいはキリスト教のプロテスタントに端を発するような要素を称揚していると感じられる部分もありました。なのでラッセルはキリスト教のある側面を批判する事で、自身が信奉しているキリスト教のある側面の正しさを示したかったのかもしれません。